らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「姑と嫁について」与謝野晶子

今回は、明治を代表する女流歌人与謝野晶子が、
実際に嫁が姑を殺傷未遂した事件をもとに、嫁姑関係どうあるべきかを論じた文章である。

与謝野晶子というと月並みだが、自由奔放な情熱的な歌人というイメージしかなく、
一体どんな意見を言っているのかと思ったが、
今日テレビをにぎわしている女性論客とは一線を画し、意外にも理性的かつ分析的である。

ただ、新しい開明的進歩的な明治という時代を支持していること及び
当時三十代半ばで年齢的に嫁に立場が近いせいか、多分に嫁に同情的で姑に厳しい。
 
作者曰わく、姑は明治以前の封建的なしきたりを墨守しそれを嫁に強いる女性であったとの事で、
この事例では、神戸から横浜に度々出てきては嫁に小言をいい、夫に讒言していたということだから、
なかなか手強い姑だったと思われる。

このような保守的な姑に対して、筆者は老人教育の必要性を説く。
曰わく、
老人は若い時教育を受けたきりであるので、
年を経るとどうしても若い世代とジェネレーションギャップを生じ、価値観が衝突しやすい。
よってこれを回避するため、現代の精神思想を老人にも教育する場を作るべきであると。
 
それから、これからの時代明治以降の開明的な教育を受けた世代が姑世代となれば、
この時代の無教育の姑と違って、嫁姑相和す時代がくるのではないかとの期待もしている。

が、しかし、この文章が書かれた100年後の現代においても、
似たような嫁姑トラブルが絶えることない現状がある。
今の姑世代は、戦後の民主教育を受けた開明的な世代であるにもかかわらずである。
確かに明治時代に比べれば、揉め事の数は減少しているかもしれないが
事例自体は複雑化しているような気もする。
与謝野晶子さんに意見する気は毛頭ないが、
嫁姑問題の根源は理性よりも多分に感情の問題、
くだけて言えば、嫁姑と夫の三角関係に類似した嫉妬のようなものがメインのような気がする。
トラブルの原因が感情であるとすれば、いかに科学技術等時代が進もうと、それが解消することはない。
理性が感情を完全にコントロールできるかということに、自分はやや懐疑的で、
だからこそ人間は味があるとむしろ肯定的にすら思っているが、
たぶん人類が月に住むようになっても、嫁姑問題は論じられていると思う。
ただ、筆者も述べているように、
嫁姑にはさまれた夫がもっと積極的に割って入って仲裁すべきであったという意見には、
大賛成でこれができればかなりの部分は解消できるような気がする。
どちらにも嫌われたくないという曖昧な態度が問題を大きくしている部分は絶対あり、
世の男性は肝に命じるべきだと思う。

自分は現在、幸運にも?そういう立場にはないが、
将来そのような立場に立ったら多少へっぴり腰になるかもしれないが、
嫁姑二人の間に果敢に割って入りたいと思う。
たぶんできると思う(笑)。

しかし与謝野晶子さんをもってしても、開明的理性的な明治の思想が、
人間の抱えた諸問題をほとんどクリアに解決してくれると、期待して疑わなかったことにちょっとびっくりする。
その他の一般人については推して知るべしである。
世界的にそのような潮流だったので、仕方ない部分はあるが、
どんなに理性で律しても割り切れない感情があるからこそ、
人間らしい味があり芸術を生み出す部分もあり、文学もだからこそ、常に人間を題材としている。
おもしろいことだと思う。

最後に、与謝野晶子さんも理性で人間の感情を全て解消できると言っているわけでないことは、
念のため追記しておく。