らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「小説の読者」芥川龍之介

 
 
小説の読者というのは何を読んでいるのか。
芥川龍之介は、今の小説の読者というものは、おおよそ3つのものを求めて読んでいると述べます。

まず、その一つはその小説の筋。
その次には、その小説の中に描かれた生活に憧憬を持つており、
第三には、反対に読者自身の生活に近いものを求めている。

自分はどうだろうかと検証してみると、
やはり小説ですから、ストーリー(あらすじ)を追うことはします。
そして、そのストーリーがあまりにもご都合主義的で論理的因果的に破綻してしまったりすれば、
やはり興ざめしてしまいます。
例えば、突拍子もない偶然の出来事が重なり最後にハッピーエンドとか、
登場人物の性格がいきなり変わってしまうなど。

二つめの、小説の中の生活に憧憬を持つているということ。
これもわかります。
自分的にとってSF小説などはそうですね。
宇宙を自由に旅できるような世界は、やはり自分にとっては憧れで、
そのような世界が描かれた作品などには引き込まれます。

三つめの、読者自身の生活に近いものを求める。
これもなるほどと思います。
自分自身の生活に近いものは感情移入しやすいですから。
学生時代に読んだ夏目漱石「こころ」などは、その例かなと思います。
若い時は異性がやはり気になりますから、
好きな女性をめぐる親友との三角関係など
読んでいて、次はどうなるんだろうと気になって
思わずどんどん読み進んでしまいます。

しかし、これら3つについては改めて言われなくても、当たり前のような気もしますし、
分類による整理としては今ひとつのような気もします。

この文章の要諦はどうもその以下の部分にあるようです。
即ち、筆者は、小説を鑑賞する時に評価を決定するものは、
その三区分のいずれに属するかということではなく、感銘の深さであるといいます。

だだここでは、何に対して感銘の深さを受けるかということについては直接言及していません。

自分が思うに、芥川龍之介の言うそれは、人間の心の有り様ではないかと感じます。
すなわち、時代や風俗が変わっても、
喜び、悲しみ、怒り、憎しみ、孤独などの人間の心の有り様は
不変といっていいほど変わらないもので、
延々と人間社会に受け継がれているものです。

どうして人間は孤独に陥ってしまうのか、
他人への憎しみを突き詰めると人間はどうなってしまうのか、
人間の心にとって最上の喜びとはどのようなものなのか。
そういう心の有り様を深く掘り下げ、その真なる部分に触れた作品というのは、
時代を超えて読まれる普遍的な価値を有するものとなります。

小説の舞台は地獄だったり、神話の世界だったり、江戸時代だったり、
平安時代の都だったり、河童の世界だったり、明治時代の汽車の中だったり、本当に様々です。
しかしそこで描かれているのは、変わらぬ人間の心の有り様です。

その心の内奥を深く掘り下げた作品が、
文章中にいう感銘を受ける「未だ何かある」ものではないかと自分は感じます。

人間にそれぞれ個々の異なる個性がある以上、心の有り様の捉え方も無数にあるはずで、
それは林檎を描いても百人百様の林檎が描かれるのて同じで、
人間の心の有り様というものに対して新たな視点、発想に気付く可能性は無限にあります。

そういうものを作品から見出す人々が
作品中の「文芸的知識階級」に当たるのではないかと思うのです。

そして、この「小説の読者」で述べていることは、一見読者の立場で小説というものを論じながら、
実は、芥川龍之介が小説家として書く方の立場から、
自己が表現したいと願っていることを表しているように感じます。

彼がその小説中に描く人間洞察というものは、非常に鋭く、かつ深いものですが、
反面、深すぎて、底の見えない穴の中をのぞくようでもあり、
時には、恐ろしさすら感じることがあります。

ですから芥川龍之介の作品は、その真意を見極め切れず、
おいそれと記事を書けない部分がどうしても自分にはあります(^_^;)


(参考過去記事)
蜘蛛の糸 http://blogs.yahoo.co.jp/no1685j_s_bach/6848526.html
枯野抄   http://blogs.yahoo.co.jp/no1685j_s_bach/3791342.html
ロッコ   http://blogs.yahoo.co.jp/no1685j_s_bach/1833683.html