【美術】高畑勲展7 かぐや姫の物語
高畑勲展最後の記事となります。
高畑勲さんの遺作となった「かぐや姫の物語」
かぐや姫の物語 予告/The Tale of Princess Kaguya 4K TRAILER
「かぐや姫の物語」絵は非常に美しい。惹かれるものがあります。
いわゆる、アニメーションというよりも、絵画の連作を見ているよう。
高畑勲さん及び宮崎駿さんのアニメーションというのは、今までの概念を根本に変えたのではないか、
彼らの作画したものは、アニメーションというよりは、
動く絵画といってもよい芸術性に優れたものに思います。
それまでのアニメーションの絵は、手塚治虫さんも言っているように記号にしか過ぎなかった。
しかし、高畑勲さん、そして宮崎駿さんの表現することへの情念といいますか、こだわりといいますか、
今回の高畑勲展で見た、他の人が見逃してしまうような何の変哲もない背景や一本の線、
それにこだわった何枚もの下書きと試行錯誤を表すメモの束。
高畑さんは晩年、下書きのような線を残した 作画について、
完成された線だけでなく、デッサンの線にこそ、人間の生きた息遣いが感じられると言います。
悩み、試み、好奇心などデッサンの線には描く者のあらゆる感情が看て取れる。
それはちょっと前に、ウィーン・モダン展でシーレのデッサンを見た時にも思いました。
高畑さんは、アニメの事件性を嫌い、日常性ということを重視しました。
つまりは、試合とか戦いとかそういう非日常的な事件を描くことは、必ずしも人間をよく描くことにならない。
ご飯を食べたり、歯みがきしたりという日常的な描写を丹念に描くことで、
はじめて血の通った、息づいた人間というものを描くことができる。
というようなことを言います。
そういえば、アルプスの少女ハイジやジブリの作品などには、
美味しそうにご飯を食べる描写があちこちに見られますね。
こういうシーンを見ると、思わずお腹が鳴ってしまいますよね(笑)
そう、お腹が鳴る、食べるという行為は人間が常に日常において触れている実体のある行為なのです。
食べたり寝たりという日常性は見過ごしてしまいがちですが、実体があるんです。
それに比べると、非日常の事件的な出来事というのは観念的であるといえます。
高畑さんの、背景への作画のこだわりも、背景は絵空事の観念的なものではなく、
実に存在し、人間に寄り添っているものだからでしょう。
このように日常を形作るものにこそ、人間の営みを幸せにする要素がある。
生きているという実感、素晴しさを感じるためには日常を丹念に描くことである。
今回、高畑勲展において、一緒にいたいと思う人といつも一緒にいること。
という一見シンプルで日常的なことが最上の幸せと感じたのは、
そういうところにあります。
さて、高畑勲さんの遺作となった、かぐや姫の物語というのは、
天から降りてきたかぐや姫が、地上でおじいさんやおばあさんと出会い、地上の人々と交わりを持って生きてきたのに、
全てそれを捨て去って天に戻っていくという話です。
つまりは、一緒にいたいと思う人といつも一緒にいるという
地上における最上の幸せを捨てて、天に帰っていくわけですが、
その時のかぐや姫の心情をストーリーとして どのように着地させているのか、非常に興味があります。
実は自分はこの作品を見ていません(^_^;)
ですから、今、この作品の感想を述べることはできません。
この作品については、高畑さん自身も色々語っていますし、その他周辺の人たちも色々語っていますが、
それは例えて言うならば、他の人が料理の味をいくら説明しても、
実際自分で食べてみないと、やはり料理の味はわからないというところです。
いつか機会を捉えて、見てみたいと思っています。
また、この高畑勲展、絵を描いたり、映像を撮ったりする人にとっては、
非常にインスピレーションに満ちた美術展だったのではないでしょうか。
人の心を打つ線とは何か。
大量に残された無数の絵コンテやレイアウト、メモ書きなど、
宝の山のような美術展だったと思います。
自分はそのような制作アプローチについては疎いので、それ系の記事を書けなかったことは本当に残念です。
しかし、資料から、制作者の気といいますか、熱気みたいなものを感じました。
興味を持たれた方はまだまだ開催中ですからぜひ見に行ってみてください。