らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「愛撫」梶井基次郎(2)







今回の「猫」のテーマは梶井基次郎「愛撫 」。
梶井基次郎の作品といえば、「檸檬」がよく知られていますが、

実はこの「愛撫」、以前に読んで記事にしたことがあります。

前に読んだ時には、まだランスを飼っていませんでした。
当時は、作者の描写する猫の可愛らしさがとても印象に残りました。

今はランスを飼っていますから 、
その猫の可愛らしさが、さぞ深く実感できるだろうと思って読み始めましたが、
意外にも、自分が気を引かれたのは、
猫そのもの可愛らしさよりも、猫に接する作者の姿態でした。

梶井基次郎は、猫を食べちゃいたいくらいの可愛がりようで接していますが、
その様の、耳をかじったり、爪を全部抜いてみたいというような表現は、
人によっては粘着質で猟奇的?と感じてしまう人もいるでしょうが、
決してそうではありません。

猫に傾ける愛情の全てを注ぎ込んで、むしゃぶりつくように可愛がっている。
おそらく、猫と一緒にいる時は、
ずっと猫を撫でて抱っこしたり、いじったりしていたんじゃないでしょうか。

詩人の情熱というのは、荒れ狂う川の奔流のようであり、
自らの心がシンクロした対象に対しては、
その情熱のパワーは凄い量と勢いで流れ出て、注ぎ込まれていく。

それだけではありません。
作者は、むやみやたらに猫を可愛がっているだけではなく、
じっと見つめてみたり、触ってみたり、噛んでみたり、匂いを嗅いだり、
はたまた夢にまで出てきたり、
あらとあらゆる自分の五官で、猫というものを感じてみたいというその意欲。

自分もランスと毎日接していますが、
作者にそれに比べると、遥かに単調で淡白なものです。

そう、詩人と一般人との違いは、
対象に対する深い情熱、入れ込み具合、ガムシャラ感。
そして、ここまで対象を密に見るかという五官をすべて注ぎ込んだどん欲な観察力。

自分で猫を飼ってみて、この作品で新たに感じたのは、そういったものでした。

読書というものは、1回読めば、それで終わりというものではありません。
名作というものは、汲めども汲めども尽きぬ泉のようなもの。
皆さんも、これはと思った作品の二度読み三度読みをぜひお勧めいたします。









「私はゴロッと仰向きに寝転んで、猫を顔の上へあげて来る。
二本の前足を掴んで来て、柔らかいその肉球を、一つずつ私の目蓋にあてがう。
快い猫の重量。温かいその肉球。
私の疲れた眼球には、しみじみとした、この世のものでない休息が伝わって来る。
仔猫よ! 後生だから、しばらく踏み外はずさないでいろよ。お前はすぐ爪を立てるのだから。」

「愛撫」より




「愛撫」梶井基次郎
http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/card411.html