らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【父の死】小さな棺





日本列島かなりの地域が梅雨入りしましたね。

6月といいますと、どうしても思い出してしまうのが、
父が突然脳溢血で倒れて救急搬送された時のこと。
もう5年も前のことになります。
とるものとりあえず、急いで名古屋の実家に帰りますと、
父が家庭菜園で作っていた玉ねぎが実家の玄関のざるに積んであり、
その玉ねぎの匂いが、梅雨の空気の湿り気と相まって、
あたりに漂っていたのを今でも思い出します。

結局そのまま、父は意識が戻らず、
入院生活を1年半続けた後、正月の二日に亡くなりました。

父の告別式が終わり、お棺を火葬場に運んだときのことです。

その火葬場はいくつかの焼き場が並んで設置されており、
父のお棺もその一つでした。

そのいくつかの焼き場の中に小さなお棺がひとつありました。
まだ若いお父さんとお母さんと おじいちゃんとおばあちゃんでしょうか。
小さなお棺を取り囲むように、じっとその中に目をやっていました。

その四人の後ろ姿は本当に悲しげで、ひたすらに棺の中に注がれていました。
自分はその後ろ姿を今も忘れることができません。

四人は自分の命をもぎり取ってでも、
お棺の中の小さなこどもに与えたいと思ったことでしょう。
しかしながら、人の命の丈だけは、人間ではどうしようもならない人知を超えたもの。
死の前では人間は無力です。
結局、死というものを受け容れるしかない。

しかし、死を受け容れるということはそんなに悪いことではないと感じます。
受け容れるとは、諦めるという意味とは違います。
もっと積極的な意味をもつものだと思っています。

現代は人生80年といわれ、人類史上最も死から遠ざかっている時代といっても過言ではありません。
しかしながら、死が遠ざかり、その意識が希薄になったと同時に、
生も希薄になっているところがあるようにも感じます。

人生は長いんだから、その気になればいつでもできる。
ずっと無制限に生は続いていくと錯覚してしまう。

明日命があるかないわからないというのであれば、
すぐさま、えいや、と飛び込む踏ん切りもつくでしょうが、
現代は長く生きるであろう人生のリスクを計算して、
何かをする飛び込むタイミングを逸してしまっている。

もうちょっと待ってみよう。もう少しだけ様子をみよう。
今度機会が来たらやってみよう。
そして、結局、何もしないまま生は無駄に垂れ流されてゆく。

死の意識が希薄な者は、結局生もおろそかにしてしまう。
そう感じるところがあります。


死をよくするものは生をよくし、
生をよくするものは死をよくする。
そんなところがあるのではないかと思っています。


今回は、あの時に見た、小さな棺の記憶が自分から消えてしまう前に、
思いついた事を書いてみました。