「春は馬車に乗って」横光利一
最近、入院中の父の見舞いの帰省やらなんやらで、
なかなか本が読めませんでしたので、
久しぶりに読んでみました。
といっても今回読んだのは、
不治の病で入院している妻と、
それを見守る夫の話なんですけれどもね(^_^;)
冒頭から読んでいくと、
病院のベッドに横たわる妻と傍らに寄り添う夫の会話が、
なんとなくかみ合ってないような…
というより夫の受け答えが、
ちょっと風変わりというか、クセがあるというか。
それもそのはず。
この物語は、かつて新感覚派として名を馳せた
横光利一自身の実体験に基づくお話なのです。
新感覚派とは、ごく簡単に言えば、
レトリックを多用し、新しい言語感覚を創造する作風のことのようです。
冒頭の描写も、擬人法やら比喩表現やら駆使して構成されています。
「渚では逆巻く濃藍色の背景の上で、
子供が二人湯気の立った芋を持って
紙屑のように坐っていた。」
紙屑のように…というのは、
なかなか難しい表現ですが、
きちんと並んで座らないで、
各々バラバラにリラックスしている様子が、
自分には浮かびました。
そして、これが、作者の横光利一です。
なんと言いますか、
髪型からして、何か新しいものにチャレンジしようという
気概が見受けられるような気もします(^_^;)
さて、物語では、
小さなダリアの花が次第にしおれてゆく描写を、
次第に病状が進んで、弱ってゆく妻になぞらえていますが、
夫は、妻の残り少ない人生に起きるであろう、
全ての艱難を受け入れようと決意します。
「彼は苦痛を、譬えば砂糖を甜める舌のように、
あらゆる感覚の眼を光らせて吟味しながら甜め尽してやろうと決心した。
そうして最後に、どの味が美味かったか。
――俺の身体は一本のフラスコだ。
何ものよりも、先ず透明でなければならぬ。
と彼は考えた。」
というのは、新感覚派の作者らしい表現で、
妻の病と真っ正面に向き合おうという、
断固とした意志の表れなのでしょう。
入院の初めの頃は、まだまだ生きることに貪欲な妻。
それは夫が買ってきた臓物を平らげる描写からも伝わってきます。
色や形も、とりどりで、ぎらぎらした臓物の描写は、
一見グロテスクですが、
それこそが作者の感じる「生」というものの感覚なのでしょう。
しかしながら、病床の妻にとって、
病院のベッドの上が、今や世界の全てであり、
看病する夫が、心許せる唯一の人間なわけですから、
次第に病状が悪化し、気分が悪くなるにつれ、
事ある毎に、看病する夫に、剥き出しの感情をぶつけるようになります。
その際の、妻の夫に放った乱暴な言葉などは、真に迫っており、
読んでいる自分も病室に立ち会って、
その場面に遭遇している緊張感みたいなものすら感じます。
それは、半ば八つ当たりなわけですが、
その受け答えに、いちいち律儀に応対する夫は、
生真面目というか、思わず笑ってしまいますが、
少なくとも妻に対する真摯な愛情が見てとれ、
ちょっと微笑ましくも感じます。
がしかし、あまりもの妻の激しさに、
妻の健康な時に与えられた嫉妬の苦しみよりは、
病気の妻から受ける激しい罵倒の方が、
数段の柔かさがあると自ら言い聞かせ、
その「新鮮」な解釈にすがろうとする夫。
そう無理やり解釈することによってしか、
夫婦として妻との関係を保ってゆく自信がない。
彼もギリギリの心理状態なんでしょう。
そして医師に妻の命が長くないことを告げられ、
覚悟はしていたものの、いきなり現実を突きつけられ、動揺する夫。
「死とは何だ」
ただ見えなくなるだけだ
できるだけ死というものを矮小化して、
自分の心を落ち着かせようとする夫。
妻の方も以前のように、夫を罵倒する体力が無くなってゆき、
静かに死を受け入れるような時もありますが、
さめざめと泣いて悲しむ時もある。
つまりは、生と死の波動が上下に振れながら徐々に小さくなってゆく、
その様が克明に描かれています。
そんな時、お見舞いのスイトピーの花が病室に届けられます。
春を象徴するスイトピーの花。
妻の人生の最後に、病床に舞い込んできた
ほんのささやかな春を分かち合い、共に喜び合う夫婦。
遠からず、妻は死んでしまう運命にあるのでしょう。
死とは誰しも避けることができぬもの。
しかしほんの少しの、心の保ち様や、きっかけによって
安らかにもなり、苦しくもなる。
そういう意味では、
死とは、今まで自分がどういう心で生きてきたかを
映し出す鏡のようなものなのかもしれません。
少なくとも死を間近にして、
小さな小さな喜びを分かち合える、この夫婦は、
絶望も、苦しみも、悲しみも、喜びも、共に分かち合ってきた
夫婦だったのではないか。
題名の「春は馬車に乗って」も
春を運んできた馬車に、夫婦で乗って巡るように、共にそれを楽しむ。
そんな意味合いで、つけたのかもしれないと感じました。
その「新鮮」な解釈にすがろうとする夫。
そう無理やり解釈することによってしか、
夫婦として妻との関係を保ってゆく自信がない。
彼もギリギリの心理状態なんでしょう。
そして医師に妻の命が長くないことを告げられ、
覚悟はしていたものの、いきなり現実を突きつけられ、動揺する夫。
「死とは何だ」
ただ見えなくなるだけだ
できるだけ死というものを矮小化して、
自分の心を落ち着かせようとする夫。
妻の方も以前のように、夫を罵倒する体力が無くなってゆき、
静かに死を受け入れるような時もありますが、
さめざめと泣いて悲しむ時もある。
つまりは、生と死の波動が上下に振れながら徐々に小さくなってゆく、
その様が克明に描かれています。
そんな時、お見舞いのスイトピーの花が病室に届けられます。
春を象徴するスイトピーの花。
妻の人生の最後に、病床に舞い込んできた
ほんのささやかな春を分かち合い、共に喜び合う夫婦。
遠からず、妻は死んでしまう運命にあるのでしょう。
死とは誰しも避けることができぬもの。
しかしほんの少しの、心の保ち様や、きっかけによって
安らかにもなり、苦しくもなる。
そういう意味では、
死とは、今まで自分がどういう心で生きてきたかを
映し出す鏡のようなものなのかもしれません。
少なくとも死を間近にして、
小さな小さな喜びを分かち合える、この夫婦は、
絶望も、苦しみも、悲しみも、喜びも、共に分かち合ってきた
夫婦だったのではないか。
題名の「春は馬車に乗って」も
春を運んできた馬車に、夫婦で乗って巡るように、共にそれを楽しむ。
そんな意味合いで、つけたのかもしれないと感じました。