「無名の人」司馬遼太郎 教科書名短篇より
今回は司馬遼太郎の作品。
といっても、これは中学の教科書のために書き下ろされたものだそうです。
司馬遼太郎といいますと、やはり数多の歴史小説ですが、
その執筆のための調べものをしていると、
主役でなく脇役のような人、脇役ですらなく、
いわゆる通行人役、エキストラ、背景というような人が、ひどく気になることがあるといいます。
この文章で取り上げるのは、「所郁太郎」なる人物。
この文章で取り上げるのは、「所郁太郎」なる人物。
彼のことを知っている方はいらっしゃるでしょうか。
著者曰く、
彼は歴史の舞台に一度だけ、ほんの一瞬登場します。
瀕死の重症を負ったことがあります。
ほとんど虫の息の下で、いっそ、ひと思いにとどめを刺してくれというほどの深手でしたが、
そこの場に入ってきたのが医師である所郁太郎。
井上の命を救うため、手術を決意しますが、
なにせ急場のこと、手術道具などあろうはずもありません。
とにかく、たまたま家にあった畳針で傷口を縫い合わせ、焼酎で消毒をする。
手術は夜更けまで数時間を費やし、縫い合わせた傷は50針以上。
見事手術は成功し、奇跡的に井上馨は命をとりとめ、
幕末を駆け抜け、新しい明治の世を生き抜きました。
しかし、手術を施した所郁太郎は、その数ヵ月後チフスを患い死去。
維新の世を見ることはありませんでした。
ほとんど虫の息の下で、いっそ、ひと思いにとどめを刺してくれというほどの深手でしたが、
そこの場に入ってきたのが医師である所郁太郎。
井上の命を救うため、手術を決意しますが、
なにせ急場のこと、手術道具などあろうはずもありません。
とにかく、たまたま家にあった畳針で傷口を縫い合わせ、焼酎で消毒をする。
手術は夜更けまで数時間を費やし、縫い合わせた傷は50針以上。
見事手術は成功し、奇跡的に井上馨は命をとりとめ、
幕末を駆け抜け、新しい明治の世を生き抜きました。
しかし、手術を施した所郁太郎は、その数ヵ月後チフスを患い死去。
維新の世を見ることはありませんでした。
彼の生きざまはそこで止まってしまっていたのですが、
著者は、或る日、たまたま適塾の名簿の中に所郁太郎の名前を発見します。
その時、息を忘れるほど感動したそうです。
そこから紐解かれた所郁太郎の歩みですが、
美濃(今の岐阜県)に生まれた彼は、幼時期、医家へ養子に出され、
長じて京都や越前で勉学に励み、22歳の時、大阪の適塾に入門。
そこで、オランダ語や病理学、外科学などを学んだそうです。
そのうち、時勢への憂悶押さえがたく、
幕末の志士として、浪人の身ながら、長州藩の嘱託として活躍していたそうで、
井上馨の手術を施したのは、そんな時だったのでしょう。
それから数ヵ月後、所郁太郎死去。享年27歳。
「医者というのは人を救うために生きるもので、自分のために生きるものではない。」
この言葉は、所郁太郎が学び、彼の人生で大きな影響を受けた、
適塾の師緒方洪庵の口ぐせだそうです。
自己の立身出世、有名になろうとして、上手く立ち回ることなど考えるべきではない。
まず人は自分の目の前にあるものを救うために全力で生きるべきなのだ。
これは、司馬遼太郎が考えたというよりは、
所郁太郎の人生を追ってゆくうちに感じたことなのでしょう。
そして、この文章は、同時に、歴史小説家としての、
古(いにしえ)の人との予期せぬ出会い、発見する驚きと喜び。
そういうものと出会った衝撃、感動、共鳴感。
どんなにお金を出しても手に入れることができない、
自分の足で一歩ずつ歩いてのみ辿り着くことができる、
そして辿り着いた時は、あたかも山頂からのパノラマを見るように、
その人物が蘇生して、鼓動を打ってくる瞬間の爽快感。
そういうものを見い出す歴史小説家の醍醐味といったものを、
同時に語っているように思います。
古(いにしえ)の人との予期せぬ出会い、発見する驚きと喜び。
そういうものと出会った衝撃、感動、共鳴感。
どんなにお金を出しても手に入れることができない、
自分の足で一歩ずつ歩いてのみ辿り着くことができる、
そして辿り着いた時は、あたかも山頂からのパノラマを見るように、
その人物が蘇生して、鼓動を打ってくる瞬間の爽快感。
そういうものを見い出す歴史小説家の醍醐味といったものを、
同時に語っているように思います。
現在唯一残る所郁太郎の写真
司馬遼太郎曰く、
その飄々とした秀麗な横顔からは、
「医者というのは人を救うために生きるもので、自分のために生きるものではない。」
という緒方洪庵の口ぐせのようなつぶやきが聞こえてくるようだと言います。
得てして、損しないように上手く立ち回ろうと終始する現代人は、
いつ死ぬかわからぬゆえ、出会ったものを一期一会に、全力を尽くしてそれと向き合う彼らのひたむきさを、
見習うところがあるのかもしれません。