らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「童謡」吉行淳之介 教科書名短篇より



                     吉行淳之介肖像





実は、自分は5歳の時に急性腎炎を患い、幼稚園を休んで、
半年間、自宅で療養していたことがあります。
わんぱく盛りの子供にとって、蒲団の中にじっとしていなければならないことは、
とてもつらいことで、
特に腎炎というのは痛みがない病気なので、なおさらでした。

この物語の主人公の少年も、或る重病により高熱を発し、入院することになりますが、
病気馴れしている友人が、ある童謡を口に出して、彼を慰めます。

「ぼくは静かな大男
枕の丘から眺めてる
すぐ眼のまえは谷や野だ
楽しい蒲団の国なのだ」

ちょっと風変わりですが、
こういう友達がいれば、
少しは、病気も楽しく過ごせたのにな、と自分も思います。

しかし、予期に反して、少年の病状は悪くなる一方で、
蒲団の国はちっとも楽しくありません(笑)
見舞いに来た友人に恨み言を言いますが、
少年の眼には、病弱だったはずのその友人に若々しい生命力を見出だします。
それは、少年の病状が重くて、
相対的に友人が自分より健康に見えたからに他ならないからなのですが、
これ、すごくわかるんです。

半年ぶりに幼稚園に戻った時、幼稚園のみんなが、なんと元気に見えたことか。
そのエネルギーにちょっと脅えるといいますか、そんなところがありました。


少年は長患いをして、なかなか健康だった自分に戻ることができません。
それを、別の人間になったみたいだと作品は表現していますが、
これも非常によくわかります。

意識は確かに自分なのですが、体が違う人間の体みたい、
といいますか、
自分の意識が、他の人間の体に入り込んで上手く操ることができない。
というような感じに似ているんです。

病の身の蒲団の中で、少年は、友人から教えられた
昔、おばあさんがあったとさ。という童謡の一節を、
何度も呟きます。

「ああ、この身はわたしじゃない」
「ああ、ああ、この身はわたしじゃない」


そんな少年も転地療養することで、気持ちもゆったりと休むことができ、
やっと元通りの体に戻ることができます。
そして、学校に戻り、友人と今まで通りの生活を送ることになります。

しかし、少年は、病気になる前の自分とは違う、
微妙な違和感のようなものを感じつつ、日々を過ごしていくことになります。


最後に、次のような記述でこの物語は終わります。

「自分の内部から欠落していったもの、
そして新たに付け加わってまだはっきり形のわからぬもの、
そういうものがあるのを、少年は感じていた。」


大病で何ヵ月か入院したり、療養したことのない方は、
へえー、そんなものかなというぐらいの印象かもしれません。
しかしながら、自分の体験からは、確かにそういうことはあるなと感じます。

病気の前は、わんぱくで、まるで猫のように(笑)
あちこちぴょんぴょん跳び跳ねて動き回っていたのが、
運動厳禁の絶対安静の状態。
それが半年。

父母は不憫に思ったんでしょう。
自分にダイヤブロックや粘土、本といったものをたくさん買い与えてくれて、
自分もそれで遊んでいるうちに、
次第に興味が内向的なものにシフトしていったように思います。
体力が完全に回復したなと思ったのは、
小学生になって、毎日友達と草野球をやるようになった頃でしょうか。

この作品は、作者の、子供の頃の病気がつらかったという
単なる回想を記したものではありません。
前の作品の記事でも述べましたが、
人生の中の苦み、良心の疼き、呵責といったものと同じく、
少年時代の大病といったものも、
あとあとの人生を生きていく上で、その痕跡を残し、
決して消えることはありません。
しかし、それは生きてゆくということそのもの。
ついてしまった傷をやたらに悔やみ、欠けていくものを惜しむより、
なんだかはっきりとはわからないけれども、
自分に新たに付け加わったものを大切にして、生きてゆくべきなのでしょう。






作者 吉行淳之介について
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%A1%8C%E6%B7%B3%E4%B9%8B%E4%BB%8B


この作品は、青空文庫収録ではありませんが、
図書館などで比較的入手しやすいものです。
ぜひご覧になってみてください。