らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【絵画】安田靫彦展 おまけ その2







続きです。
今回は、実際に自分も感銘を受けたこの絵に関する話です。





「伏見の茶亭」

(参考記事)http://blogs.yahoo.co.jp/no1685j_s_bach/14906474.html


Bさんの場合


Bさんは既婚の5つくらい年下の女性で、10年くらい前から見知っている、
ちょっと生真面目なところもある、仲の良い同僚です。

作品を見たBさん。

「あー、秀吉ですね。
千利休茶の湯が盛んでしたから、
秀吉も好んでお茶をたてたんでしょう。
伏見は秀吉が亡くなった城ですから、
これはかなり晩年の秀吉ですね。」

「おー、詳しいね。他に気付くところない?」

「他に気付くところですか。
えー・・・何だろう。何ですか?」

「この絵をパッと見て感じるところとか。」

「あー、秀吉だなーって(笑)」


実は、この見方は、日本人にありがちな鑑賞なんです。
しかし、それは、自分的には、決してやってはいけないと思っている鑑賞法でもあります。

すなわち、それは、自分の頭にある既存の知識に作品を当てはめるもの。
豊臣秀吉」「茶の湯」「千利休」「伏見」というような自分の既存知識、
固定観念といってもいいかもしれませんが、それを見た作品に当てはめる。

たくさん当てはまれば当てはまるほど、
その人はその絵のことに深く通じていると言われることがありますが、
実はそうではない。と自分は思います。

なぜなら、それは、自分の頭の中にある既存観念に当てはめることで、
本来そのもっているはずの作品の形を、
自分の既存の形に押し込んでしまっているに過ぎない。

例えていうならば、人間をみるのに、
他人が作成した履歴書や評価で判断し、それに当てはめようと終始し、
その人自身から発せられているものを、自分自身の感性で素直にキャッチしようとしない。

果たして、そのように人に接する者が、その人のことをよく知っているといえるでしょうか。

また、この鑑賞法の最もまずいところは、
自分の頭の中のデータをぐるぐる回っているだけで
該当のないものには関心が及ばないので、感性が広がっていかないところにあります。


そういう意味では、データ豊富なBさんよりも、
Aさんの方が感性の広がりを感じ取ることができます。

残念ながら、Bさんは「秀吉」という既存知識から、外に出ることはなかった。
却って豊富な知識を持っていたがゆえにともいえるかもしれません。


芸術を鑑賞するに臨んでは、
自分の頭の中にあるデータを引っくり返して、
ぐるぐると正解を探し回って当てはめようとするのではなく、
素直に感じたものを捉え、それは一体何なんだろうと自らの心に収め、
時間をかけてその正体を追いかけてゆく。

それは得てして曖昧で、形のはっきりわからないものなので、
短時間で明確な「正解」を求めたがる現代では好まれないところがあります。

しかしながら、それをゆっくり追いかけていくと、
ある日、曖昧にしか見えなかったものが、
形をまとって、にわかに存在感を増してみえてくることがある。

それが感じられれば、自分の心の中の一生の宝物となり、
心のひろがりを実感することができる。

と、いうのが、自分の芸術の鑑賞に関するポリシーみたいなものです。
人間への捉え方と芸術への捉え方って、とても似ているところがあるように思います。