らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【父の死】母の決断

 
 
時は今より少し遡ります。
一年前のちょうど今頃、父はまだ生きていました。
生きていた…という表現が正しいのかどうかはわかりません。
少なくとも心臓は動き、息はしていました。

先にもお話しましたが、父は一昨年の6月、外出先で脳出血で倒れ、
その時点で脳の半分以上が活動を停止。
脳というのは一度活動を停止しますと、再びそこが復活するということはないそうで
(医学的用語としては不正確かもしれませんが)、
父は健常者として生きていくことはできなくなりました。

そこから長い父の入院生活が始まりました。
当然ベッドに寝たきりで意思疎通のようなものは全くできません。
目を開き天井を見つめたまま、呼びかけにも全く応じません。
医者に意識はどんな状態なのかと聞くと、
あるのかないのか明確な答えは得られず、
例えていうなら、半分覚醒しているような半分眠っているような、
濃霧の中をぼんやり彷徨(さまよ)っているような状態であろうとのことでした。
要は父のような患者の意識の状態は、
まだ、きちんと医学的に解明されていないのでしょう。
食べ物は口から摂取することはできず、点滴でした。

この状態が数ヶ月続いたでしょうか。
その間、父は発作を起こすことなく、なんとか持ちこたえましたが、
かといって状況が好転するわけでもありません。

かわいそうですが、家族も見守るだけで、どうすることもできませんでした。

そうするうちに父に転院の話が持ち上がりました。
なんでも緊急で搬送された病院にはずっと入院していることはできないそうで、
一定期間入院した後は転院するのが通常とのことだそうです。

その転院の際の担当医との面談で事件は起こりました。

この場には自分も弟も居らず母一人で臨んだので、
母の話をそのままお話するしかないのですが
ですから客観的事実は正直わかりません。
ただあくまでも母の目線でのお話をするしかないのです。

それによると、
担当医が説明するには、
父の容体が好転する可能性はほぼゼロであること。
脳の機能は悪くなることはあれ、回復することはないとのこと。
そして今後のアドバイスとして、
胃ろうというのがあって、胃に直接管を通して栄養を送り、
身体的機能を維持する方法があるのですが、
「胃ろうをすればご主人は数年、上手くいけば10年長生きできますよ。」
と、にこやかに笑顔で母に勧めたというのです。

この担当医の一言に母はキレました。

ご存知の通り、母という人間は、
医者先生がそう言ったからといって、
はい、そうですか。と、しおしお従うような女性ではありません。
納得のいかないことはてこでも動かない、強情で激しい一面を持っています。

「そんなね、長生きできます、長生きできますって医者はへらへら笑って言うけどね、
お父さんの心は今一体どこにいっちゃってるの。
どこだかわからないところに、蜘蛛の巣に絡まって身動きできなくて、
長い間、薄もやの中をぼーっとしているしかないって、
そんなんで、お父さんは生きとるって本当にいえるの?
生きとるってそういうことじゃないでしょ!」

この時の様子を自分に話す母には鬼気迫るものがあり、
この世で母のことを誰よりもよく理解していると思っている自分でさえも、
空気をビリビリ伝わってくる母の気に威圧され、
思わず額から汗がにじんでくるほどでした。

この調子で詰問された医者もさぞ驚いたことでしょう。

確かに医学的にいえば父は身体的には生きており、
胃ろうにより栄養補給すれば
身体的にはしばらくの間は「健康」に生きることができるのでしょう。
世間一般でも、或いはそういう認識なのかもしれません。

しかし息子として母の弁護をさせていただければ、
母は、父が笑ったり楽しんだり怒ったり悲しんだり、
そういう人間としての人生を全うさせてやりたいという思いから
そのような言葉が出たのだと思います。

「生きる」という意味が担当医と母では違っているのです。


母と自分と弟との話し合いの結果、
母の意志を尊重して、転院先の病院でも胃ろうなどの新たな処置は取らず、
現状維持で様子を見るという方向で決まりました。

この世で40年父と連れ添って苦楽を共にし、
そして、この数ヶ月間病室で父の顔をじっと見つめていた母が、
やはり一番父の意志をよく理解していると思ったのです。

父が倒れたのが梅雨のあたりでしたから、
あれは冬枯れの時期だったでしょうか。
父は最新設備のある救急病院から古びた市民病院のようなところへ転院しました。