らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【父の死】家族の決断

 
 
 
続きです。
転院した病院は、病院というよりは、
回復の見込みのない、父と同じような患者を寝かせておく、
ある意味、収容施設のようなところでした。

病院の廊下には、ある種独特のすえた匂いが漂い、
病院の窓に差し込む冬の日差しは、弱く虚ろに感じました。

父の病室に行く道すがら各々の病室をなにげに見ると、
父のように目はぼんやり虚空を見つめ、口は半開きの患者たちが
病室のベッドを埋め尽くしています。
父のその中の大勢の一人のわけですが、
一体日本中にどれだけこのような人々がいるのかと
ちょっと恐ろしい気持ちになりました。
これが世界に誇る長寿大国の現実なのだろうか…

父は一昔前なら倒れた時点でとっくに死んでいた命です。
ところが近時の医学の「進歩」により
脳の停止を食い止め、命を拾ったのです。
しかし脳を蘇生する技術はないため、
身体的には命を拾ってもそっくり元通りというわけにはいきません。
ですからいわゆる不完全な命を余儀なくされている人達が大勢ここに収容されているのです。

それでも母は根気よく病院に通って父の面倒を見たと思います。
その間、父の容体は好転することもなく悪化することもなく、
人間らしい表情を見せることも終(つい)ぞありませんでした。
 

そうするうちに春が来て夏が来て秋が来て、
また冬が巡ってきました。
そこで家族に新たな問題が持ち上がりました。

父の入っていた入院保険があと数ヶ月で切れ、
実費で入院し続けるか自宅介護に切り替えるか選択を迫れたのです。

弟も子供を三人かかえており、経済的にできることには限界があります。
いつ終わるのかわからぬ父の入院費で
今ある家族の生活が倒れるわけにはいきません。
自分と母と弟の三人は費用や様々な負担を勘案して、
何度も何度も話し合いを重ねましたが、
母が最後に一言。

「お父さんの面倒はやっぱり私が見るよ。」
と言いました。

自分の部屋にリースの介護用ベッドを置いて、
自分は傍らに寝て父の面倒を見るというのです。
誰も介護など経験したことなどありませんから、
それがどこまで可能なことなのか誰にもわかりません。
とにかく暗闇に道を探して手探りで進むようなもので、
母の意志を尊重しつつも過度な負担とならないように
常に修正しつつ一歩一歩進むしかありません。
母は介護講習のようなものにも通う。と言いました。

しかし、それでも母だけの力では、他の家族の協力がなければ、
自宅介護など為すことはできません。
そこで、母と自分と弟家族全員での家族会議が開かれましたが、
その場でのテニスが好きな長女が、
「私もじいじのこと大好きだから、できること何でもするよ。」
と言ってくれた、その一言がどれだけ母を勇気づけてくれたことでしょう。

しかし考えることは山積みでした。
父の果てしなく続くかもしれない介護で、
弟家族の未来や母の健康を損なうようなことがあってはなりません。
父の事業の清算問題も相まって、自分も色々考える日々は続きました。


そしてそのだいたいの見通しを曲がりなりにも立てることができ、
それを家族と最終的に相談するため、
年末、打ち合わせに名古屋に帰りました。

その話し合いで、なんとかいけるだろうと
家族それぞれがそれなりに確信をもって
自分が横浜に戻ったのが12月30日夜のこと。
帰り際最後に家族全員で父を見舞いましたが、
父の変わらぬ表情を見ながら、一体来年はどんな年になるのだろうと思いました。
しかしもう腹をくくってやるしかないのです。


そして年が明け、
箱根駅伝の往路のランナーが今まさに横浜を通過しようとした正月2日早朝、
母から父の容体が急変したとのメールを受け、
その直後、亡くなったという知らせを受けました。

知らせを受けた時は驚きと悲しみと脱力と
色々入り混じった気持ちで、なんと形容したらよいかわかりません。

しかし今は父の弔いの準備を急いでせねばならず、
いつまでも部屋でぼーっとしているわけにはいきません。
そこで年末、名古屋から帰ってきて、
まだ解き切っていない荷物を急いで組み直し、
母と弟家族、そして父の待つ故郷へ再び引き返したのでした。