らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「値(あ)ひがたき智恵子」智恵子抄より 高村光太郎

           
               
                                       http://touhoku.sakura.ne.jp/chiekokoutaro.jpg
                                       発症後療養地での高村光太郎と智恵子夫妻
 
 
 
 
値(あ)ひがたき智恵子

 

智恵子は見えないものを見、
聞えないものを聞く。

智恵子は行けないところへ行き、
出来ないことを為(す)る。

智恵子は現身(うつしみ)のわたしを見ず、
わたしのうしろのわたしに焦がれる。

智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

わたしをよぶ声をしきりにきくが、
智恵子はもう人間界の切符を持たない。





前記事「樹下の二人」では、
二つの魂が離れてがたく合わさっている歓びを
高らかに詩に歌った高村光太郎でしたが、
この詩では、どんなに離れまいとしても
不可抗な力が、二人の魂をどんどん引き離していってしまう、
どうしようもない、やるせない思いが表現されています。

人智ではどうすることもできない、
いくら彼女を救い上げようと目一杯手を伸ばしても、
決して届くことのない世界にどんどん入り込んでいってしまう妻智恵子。

詳細は後述しますが、智恵子は40代半ばに精神分裂症、今でいう統合失調症を発病。
転地療養を繰り返しますが、病状は重くなる一方でした。
そして遂に自宅療養では家人の手に負えなくなり、病院に入院。
その3年後に亡くなります。

この詩は智恵子のその入院の頃に詠んだものと思われます。


実を言いますと、おそらく自分自身も、
高村光太郎と同じような思いをしたのではないかと感じることがあります。

今年亡くなった父は一昨年突然の脳梗塞で倒れました。
その時点で脳の半分以上が機能を停止。
脳は一度機能を停止してしまうと二度と回復することなく、
小規模な脳疾患を繰り返すことで脳の活動範囲は次第に小さくなってゆき、
最後には全機能を停止し、死に至るということです。

父が倒れた直後は、こちらの言葉が通じているような通じていないような、
どちらともわからぬ表情だったのですが、
数カ月、半年と時間を経るごとに、
次第にその表情がひたすらに恍惚とした、
意志の感じられないものに変わってゆき、
まさにこの詩にいう

見えないものを見、聞えないものを聞く。
行けないところへ行き、出来ないことを為(す)る。

というものに変わってゆきました。
どんなに父をこちらの世界に引き寄せようとしても、
所詮、自然に抗う、ちっぽけな人間の業(わざ)といいますか、
どうすることもできない。
ただただその表情を眺めているしかないのです。

そして、父はどんどんとこちらからは見えない深い世界に入り込んでいってしまう。
死というものの冷徹さ、
人の命はその前では大水に流されるけし粒みたいなもので、
行き着くところに行き着くのを眺めているしかないのです。

それを観念した時の、絶望、口惜しさ、悲しみ、悔しさ、やるせなさといったものが
入り混じった気持ちが、
この訥々(とつとつ)とした短い詩に本当によく表現されているように思います。

しかし高村光太郎と自分とでは決定的に違う視点があります。
それは妻智恵子の精神が壊れていく様子を、
芸術家として作品に結実させるために、冷徹にじつと観察している、その目です。

素人が家族のこのような様子を詩なり文章に表現しようとすると、
その悲しみ、苦しみというものをただただ単に吐き出したものになってしまいがちです。
自分はそれを決して非難するものではありません。
むしろ普通の、人間らしい気持ちだと思います。

しかし、芸術家のそれは、
見る人によっては非情ともいえる視点でその対象をじつと眺めている。
この作品も自分から見ますと、
そういう目を感じるところがあるのです。

これは高村光太郎が人でなしであるとか、実は妻に愛情がなかったとか、
そのような意味で申し上げているのではありません。
芸術とはそういう心持ちから生み出されることが、
多々あるという意味で申し上げているだけです。


さて、では、なぜ智恵子がこのような重度の精神分裂症、
今でいう統合失調症を発病してしまったかについて、
次回の記事では、高村光太郎の随筆「智恵子の半生」という作品に絡めて、
自分なりに、ちょっと自由に述べてみようと思います。