らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【自作小説】「ココロ」後編

 
 
私は、Tの私への呼びかけで、ふと我に帰りました。

「Mさん、自分、Aさんに告(こく)った方がいいですかね?」

私は心の中で迷っていました。
迷ったというよりも、二つの心が格闘していました。
自分こそAさんに深い恋心をずっと抱いていたのだとTを押しのける心と、
後輩のTにエールを送り、正々堂々それぞれ告白して、
Aさんに決めてもらえばいいという二つです。

二つの心の勝負はそのままもつれて勝敗を決しないまま、
答えのリミットが来てしまいました。

「…それは、やっぱり…どうなんだろうかね…」

半ばしどろもどろで、つぶやくように、
どちらともつかない曖昧な返事をするのが自分には精一杯でした。

するとTは、
「そうか~、やっぱり、あれですよね~、無理ですよね~」
と、半ば照れ隠しのような表情で言いました。

ひょっとしたら私の曖昧な返事の言葉尻に、自分が思っている以上に
彼の積極的な行動を止めようとするニュアンスが含まれており、
Tはそれを感じ取って、そのように言ったのかもしれません。

しかし私は、私の言葉に対するTの誤解を解こうとはしませんでした。
正直に言いますと、誤解したままのTの態度は
自分にとって都合がよかったのです。
あたかも無知で無辜な羊が自ら崖の方へ歩いてゆくのを知りながら、
私はそれを何食わぬ顔で、
そのまま崖の方向に向かってゆく様をじっと眺めていたのです。


その日はその話はうやむやになり、そのままとなりましたが、
それからしばらくして、自分の心の中にむくむくと一つの不安がわき起こりました。
一旦Aさんのことを諦めたTが、不意にその意思を翻し、
自分より先にAさんに告白してしまったのではないだろうか。
AさんとTは少人数の事務所で毎日顔を合わせているわけですから、
そのようなことが起こったとしても不思議ではありません。
 
そう想像し始めると、
支店時代、二人が親しげにおしゃべりしている情景などが思い出されて
気が気ではありませんでした。
しかし二人から遠く離れたところにいる自分にはそれを確かめる術がありません。
それとなく仕事の打ち合わせにかこつけて電話をし、
感触を確かめようとも思いましたが、
受話器に手が伸びては、いつもそこで引き返してしまうのでした。



それから1カ月ほど経ったある日、
自分は会社のネット回覧のお知らせに目が吸い寄せられました。
Tが先週付けで退社したとの掲示が目に入ったのです。

その時自分はすべてを理解しました。
あの時、Tは会社をやめることを決めていて、
ほのかに思いを寄せていたAさんに告白しようと思い立った。
しかしその自信がなかった。
そこで純粋に、先輩である私に後押ししてもらいたくてアドバイスを求めたのだ。
恋の相談などというものは、よほど信頼している人間にしかできぬものですから、
彼は私のことを頼りになる先輩と思っていてくれたのでしょう。
しかし悲しいかな、その信頼すべき先輩は、
小匙一杯分も彼のことを慮んばかる余裕などなかったのです。
そればかりか信頼できる先輩を装いながら、
その実、彼の恋路の行く手を阻もうとする最も執念深い敵だったのです。
 

客観的にみれば、Aさんと私の間を遮(さえぎ)ろうとする障害物は無くなりました。
しかしAさんに向かって一歩を踏み出そうと思っても、
なぜか、なかなか踏み出せないのです。
確かにこれまで通り仕事が非常に忙しく、深夜にまで及んでいるということもあるでしょう。
しかしそれは言い訳にすぎません。

それ以上に、真面目に自らの心の内を明かして相談してくれたTと正面から向き合うことをせず、
ある意味、トリックより彼を退けた。
そんなことをした自分が果たしてAさんに告白などしてよいのか。

恋愛ではそのようなことはつきものと人は言うかもしれません。
しかし汚れた手で真っ白なものに触れる時、思わず躊躇してしまうように、
Aさんに向かおうとする時、自分の心が一瞬怯(ひる)んでしまうのです。

Tに心から詫びる気持ちも込めて、
彼の恋心を励ますことでもできれば、それは拭うことができたのかもしれません。
しかし、その機会はほぼ完全に失われてしまった。
だから自分自身にもどかしく、時には苛立ちを感じつつも、
今はどうすることもできないのです。




Mの話はこれで終わりです。
その後、Aさんとどうなったのか、
彼と会う機会もなく、話も聞いていないのでわかりません。

ただMの弁護のため言わせていただきますと、
彼はとても真面目な優しい男です。
そして純粋な心を持った人間です。
それはある意味、通常人よりもそうであるといえます。

しかし、真面目で優しいがゆえに、
その心にがんじがらめに縛られて身動きできなくなってしまい、
純粋であるがゆえに却って人を傷つけてしまう。
そういうことは実際にあることなのです。

確か、学生の頃読んだ小説に、
そういうこころがたくさん書いてあったものがありました。
当時は古くさい昔のストーリーだと思っていましたけれども、
意外とそうでもないような気がします。
その時は難しくてわからなかったことも、今だったらわかるかもしれない。
探してみて、もう一度読んでじっくり考えてみたい。
私はその時、そう思ったのでした。