らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【自作小説】「ココロ」前編

 
 
夏目漱石「こころ」に捧げる
たとえ見せて怒られても(^_^;)




その話をした男は、Mと申します。
田舎から大学入学で上京し、
そのまま東京にある会社に就職した三十代半ばの男です。
Mはいつもは物静かな男なのですが、
その日は珍しく、したたか酒で酔っていたこともあったのでしょう、
久々再会した同期の自分に気を許したのか、ぽつりぽつりと話を始めました。

Mの語った話とはこのようなものでした。


その当時、私は北関東の或る支店に勤務していました。
支店とはいうものの比較的小規模な十数人程度の
アットホームな事務所という感じの雰囲気でありました。
その中にAさんという女性がいました。
年の頃、私より三つか四つくらい年下だったでしょうか。
とても気だてがよく、清涼感溢れる美しい人で、
また大変なしっかり者で評判の女性でした。
彼女は支店のマドンナ的存在で、
自分が外の仕事から帰ってきて、
彼女に「おつかれさまでした」とニッコリ微笑みかけられると、
それまでの疲れがすっかり抜けて、
なんともホッとした気分になったものでした。

いつだったか、或る夏の納涼会で、たまたま彼女と席が隣合ったことがありました。
その場の賑わいとお酒が少々入っていたこともあったのでしょう。
とても話が盛り上がり、彼女は学生時代、
クラシック音楽のピアノをずっと習っていたという話がぽろりと飛び出しました。
実をいいますと、私もクラシック音楽の愛好者でありましたから、
二人はすっかり意気投合し、
あの曲はいい、この曲の誰々の演奏はマズいなど
といったクラシック談義に花が咲いたものです。
そして、いつしか、それと同時に、
私の心の中の彼女への想いも、少しずつ次第に花開いていったのです。

その時の縁がきっかけとなり、
一度、一緒にクラシック音楽のコンサートに行こうという話になりました。
私は彼女と一緒に並んで、コンサートホールで音楽を聴いている絵を思い浮かべながら、
色々なコンサートの情報を物色しました。
それは、私の心がウキウキと舞う最高に至福のひとときでした。

そしてめぼしいコンサートを見つけ、
さあ彼女にそれを告げて、チケットを買おうという矢先、
思いもかけぬアクシデントが起こりました。
東京の本社で体の調子を崩して緊急入院した人間が出たため、
急遽前任者である私が呼び戻されたのです。

それは彼女との突然の別れでした。

その仕事は、毎日夜遅くまで、また非常に不規則であり、
いつ休みが取れるかもわからぬ大変激務の、
いわば戦場の最前線のような部署でした。
私は泣く泣く後ろ髪引かれる思いで、
数日後には支店を去らねばなりませんでした。

私の心の中に咲きつつあるものを知らぬ彼女は、
「おしゃべりできなくなるのは本当に寂しいですけど…」
と、伏し目がちに、その美しい眉を寄せながらも、
励ますようににっこり笑みを浮かべて、私を送り出してくれたのでした。


それから、またたくまに半年ほどが過ぎ、
仕事の忙しさに紛れ、自分の瞼(まぶた)の中のAさんの姿も
ほんの僅かながら、うっすらとしてきた頃、
私はたまたま支店勤務の若い男と仕事で同行する機会がありました。

年の頃、自分より七つか八つ年下であったと思います。
その男の名前をTとしておきます。

私も支店時代、セクションは違えど、見知らぬ仲ではありませんでしたので、
最近の支店の様子はどうだ、などというような、
たわいない世間話をだらだらと仕事の合間にしておりました。

Tは、言ってみれば今風のやや茶髪がかったチャラ男系の男なのですが、
まあ出来の悪い可愛い弟分というところです。
Tは、いつも、聞き流しても差し障りのないような軽口ばかりを叩いておりましたが、
この時も、何かまた、たわいない軽口を言い始めたぐらいに思っておりました。
ですから、私の予覚はまるでなかったのです。
だから驚いたのです。
彼の口から、Aさんに対する切ない恋心を打ち明けられた時の私を想像してみて下さい。

その時の私は恐ろしさの塊(かたま)りといいましょうか、
または苦しさの塊りといいましょうか、
とにかく、頭の先から足のつま先まで
石か鉄のように硬直した一つの塊りでした。




つづく