らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「鈴木三重吉宛書簡 明治三十九年」夏目漱石

 
 
少し前、夏目漱石朝日新聞に転職した際、
新聞に掲載した「入社の辞」という文章の記事を書きました。

その中で漱石は、江戸っ子の彼らしい負けず嫌いな気持ちを前面に押し出しながらも、
非常にユニークな、まるで小説「坊ちゃん」の中から主人公が出てきたようなお茶目なキャラで、
そのいきさつを語っておりました。

しかし、それはあくまでも新聞掲載記事という表向きの顔であり、
実は、漱石の本当の覚悟というものは、
信頼する門下である鈴木三重吉に宛てた私信の中に記されています。

それは、書簡中の四四一の明治三十九年十月二十六日に出されたもので、 
東大の教職を辞する半年前、まさに転職の決断直後に書いたであろうと思われるものです。


まず冒頭、
「只一つ君に教訓したき事がある。是は僕から教へてもらつて决して損のない事である。」
と、思わず襟を正して、かしこまってしまうような
ピンと張り詰めた真剣な語り口で手紙は始まります。

曰わく、
自分は今まで美しくきれいに人生が生きられるものだと思っていた。
仮に美しくない汚いものがあったとしても、
避けて通ることができると思っていた。
しかし、現実はそうではなかった。
世の中の汚いもの、不愉快なもの、嫌なものの中に
進んで飛び込んでいく覚悟がなければ何にも出来ないという事に気づいた。
と、漱石は言います。

そして自分がこれからやろうとする文学に照らして言えば、
単に美的な心地よいものは暇つぶしの遊戯に過ぎない。
とバッサリと切り捨てます。

では自分はどのような文学を志すのか。
いやしくも文学を以て生命とするものならば、
ひとつ間違えば、神経衰弱でも気違いでも入牢でも何でもする覚悟でなくては、
自分の目指す文学者というものにはなれない。
つまりは心の表面を軽く撫でるような心地よいものでなく、
人間の本質を深くえぐるような、それにより人間の本来の在り方が明らかとなり、
ひいてはそれによって人間を変え得るような、
そういうものを文学に書き綴りたいと極めて真摯な筆致で述べています。

そして最後に、
「僕は死ぬか生きるか、命のやりとりをする樣な
維新の志士の如き烈しい精神で文學をやつて見たい。」
と締めくくります。


かつて江戸時代の小説にあたるものは、
主に滑稽本や草双紙というような、単なる慰め、娯楽の域を出ないものでした。
夏目漱石の、この言葉は、
文学が暇つぶしの遊戯に過ぎなかったものから、
人間の真の在り方を模索し追求する芸術たる近代文学に生まれ変わろうとした瞬間を
示したものといえるのではないかと感じます。
この時の漱石の志が生涯貫かれたかどうかは、
その後の彼の作家人生の履歴を見れば明らかでしょう。

後に書かれた彼の代表作のひとつである「こころ」の中で、
真面目に人生を知りたいという私に対して先生は言います。
「私は今自分で自分の心臓を破ってその血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。」

それは漱石の作品に触れて何かを得ようとする読者に対する
漱石自身の気持ちそのものであるといってよいでしょう。


実は自分は、このような私信の書簡というものを好んで読みます。
そこには推敲により整えられ公に向けられた文章と異なり、
書いた者の、プライベートな生の姿があらわになっていることが多々あるからです。
皆さんも、漱石から御自身にこのような手紙が送られてきた
という気持ちでその文面に接してみれば、
漱石が言わんとするとことが、
小説などの作品とはまた違った思いで、
直(じか)に心に入るものがあるのではないかと思います。


http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card2575.html
 
(参考)転職後の漱石の履歴

1907年(明治40年)4月一切の教職を辞し、朝日新聞社に入社。「虞美人草
1908年(明治41年)「坑夫」「文鳥」「夢十夜」「三四郎
1909年(明治42年)「それから」「永日小品」
1910年(明治43年胃潰瘍の療養のため修善寺温泉に転地。大吐血、一時危篤状態に陥る。「門」
1911年(明治44年胃潰瘍が再発し入院。
1912年(明治45年)「彼岸過迄」「行人」
1914年(大正3年)「こゝろ
1915年(大正4年)「道草」「硝子戸の中
1916年(大正5年)「明暗」未完。12月胃潰瘍により死去。