らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【人物列伝】24 織田信長 前編

 


先日掲載しました菊池寛桶狭間合戦」は、
信長が成功した理由を、新井白石の言葉を借りて次のように述べています。

父信秀の富国強兵政策をよく引き継ぎ、
京に近く交通の便もよい、豊かな尾張という地の利もよく生かした。

これは間違っているとは申しませんが、
多分に後付け的理由であるようにも感じます。
もちろんそういうこともあるでしょうが、
自分としては、やはり信長の個人的資質に負うところが
大きいのではないかと感じます。

それでは信長とはいかなる人物であったのか、
いくつかのエピソードを挙げて、
自分なりに考えてみたいと思います。


後年、信長は、イエズス会宣教師から地球儀を献上され
「地球は丸い」と説明されましたが、
彼はその説明をじっと聞いていて
「それは理に叶っている」と言い、
直ちに地球球体説を理解したといわれます。
また、宣教師は、ことあるごとに様々な珍しい品を
信長に献上しましたが、
その中にあった小型で精巧な当時最新の目覚まし時計を、
修理が出来ないという理由で受け取らなかったと伝えられます。

すなわち地球が丸いと直ちに理解したのは、
既成の常識を盲信しておらず、
理により新しいことを認識し理解する、
今までの因習にとらわれない新しい発想ができた証拠であり、
目覚まし時計を受け取らなかったのは、
極めて合理的実用的な性格で、
珍品だからといって、修理できず、実用できないような品を
受け取るような好事家でもなかった。
ということが伺い知れます。


また信長の死後、天下を統一した秀吉が諸将と
次のようなよもや話をしたことが伝えられています。
蒲生氏郷の1万の軍と信長公の5千の軍が戦ったらどちらが勝つか」
蒲生氏郷は常に自ら陣頭に立って奮戦する名うての勇将であり、
諸将の中には兵数が倍することもあり、蒲生に軍配を上げた者もいたようです。
しかし、秀吉は必ず信長が勝つと明言。
その理由曰わく、
蒲生軍の兜首を幾つか獲れば、
その中に、常に先頭に立って戦う氏郷の首があるだろうが、
信長軍を4千900人倒しても、信長は必ず生き残った100人の中にいて、
再び体制を立て直して、勝利を得るまで何度も攻めてくる。

すなわち、合戦において個々の勇や気合いというものを常には計算に入れない。
天下統一という息の長い事業を完結するには、
いかに最終的にその戦争に勝利するのか、
それには何が必要なのか、冷徹な計算が常に頭の中にある。
信長の側に仕え、天下統一事業を引き継いだ
秀吉ならではの炯眼といえるでしょう。

以上、まとめると、
信長は目的意識が非常に明確であり、
それに到達するために何が必要なのかきわめて実用的合理的思考を有し、
中世的な他の戦国武将とは一線を画す
自分達が思っている以上に近代的な人物像が浮かび上がってきます。
むしろ信長より400年後の、
先の大戦の旧帝国軍人の指導部の方が、中世的ですらあります。


それでは、これを信長のターニングポイントとなった
桶狭間の戦いについて考えてみようと思います。

近年、桶狭間の戦いについては、
実は信長は、今川義元の居場所を把握しておらず、
大高城に向かう今川軍に打撃を与えるため出撃し、
偶然義元と遭遇し、討ち取ったのではないかという見解もあるようです。

しかし、自分は、やはり信長は義元の居場所を捕捉していたのではないかと思います。

すなわち、桶狭間の戦いの戦死者は、今川方2500、織田方は800といわれ、
その戦闘時間は1時間あまりといわれます。
そのデータからすると、
やはり最初に信長勢が不意打ちに近い形で今川勢に当たり、
今川勢は不意を討たれながら善戦するも
信長勢が最初の勢いを持続し、最後まで押し切ったという形なのではないかと感じます。

数千という部隊を指揮する場合、当初の目的の変更というのは、
大きな船が急に進路変更なしえないのと同じで、簡単に切り替えることはできません。
戦闘が1時間あまりで終了している事実からも
先に挙げた目的変更説は採れず、
信長勢は最初から数千の軍勢が一本の矢のようになって
今川義元に殺到していったのだと想像します。

先の秀吉の、蒲生氏郷との例え話に反して、
桶狭間の信長は、馬から下りて、味方の足軽などと混じり、
徒歩で今川勢と斬り結んだといわれます。
これは秀吉の話が間違っているということではありません。
つまりは、この時は、自身の勇を振り絞り、敵に当たり、敵将に肉迫することが
目的達成のため最も合理的で実用的でなかったかと思うのです。
つまり信長にとって桶狭間の戦い
ぎりぎりの、のるかそるかの唯一のチャンスだったと認識していたと感じます。

しかし、そのような、ある種、興奮状態だったにもかかわらず、
義元を討ち取るという目的達成すると、
逃げる今川勢を深追いせず、夕暮れにはさっさと清洲に引き上げ、
憎いばかりのクールぶりを発揮しています。

つまり桶狭間の戦いの時点で、
既に信長は、そのスタンスが完成されていた
といえるのではないかと思うのです。

桶狭間の戦いは、信長が事前の情報収集も含めて
為せるべきことを全てなし人智を尽くして挑んだ戦いで、
最後の最後の人智では成し得ぬ部分で勝利の女神が微笑んだ。
というところではないかと感じます。
しかし桶狭間以降の信長は、
勝利の女神の出番がまわって来すらしない
周到な用意を施した万全な戦いに徹しています。


では信長は、このように合理的実用的思考に徹していて、
こういう人物にありがちな冷徹もしくは冷血な、
人間がもっている温かみのようなものに欠ける人物だったのでしょうか。
これに関するエピソードとして、
秀吉の妻ねねに宛てた信長の手紙を紹介したいと思います。
この手紙は、ねねの実家木下家に伝わっていたもので、
ねねが秀吉の浮気に業を煮やし、
それを信長に訴えた(^^;)手紙に対する返書です。

みなさんなら、部下の妻からこのような手紙が来たら
どのような返事を書きますか?

これは従来の信長像とは一線を画するものですが、
まぎれもなく真実の信長の実像そのものであります。
が、しかし、このエピソード、
世間的にはあまり知られていません。

この手紙を読んで、
皆さんの中の信長像にぜひ加えていただければと思います。
http://blogs.yahoo.co.jp/no1685j_s_bach/3934261.html




(画像は信長がねねに宛てた書状の原本)


なお、【人物列伝】織田信長
予期に反し長くなってしまったので、前後編に分けました。
後編は合理的実用的性格ゆえに、信長が陥ってしまった罠について述べ、
信長が横死した本能寺の変についての自分の考えなども述べたいと思います。