らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

小説「ひとすじの桜…ある詩人の生涯」後編

年が明け、季節は、また春になろうとしていた。

暖かい南風に潮の香がほんのりと香る春になっても、
重吉の体調は一向に上向くことはなかった。

自分自身の行く末を考え、鬱々とふさぎ込み、
ひたすら溜め息をつく日々が続いた。
そのうち溜め息をつく日々にも飽くことがあって、
そんな自分を見つけた重吉は、
人間というものは、絶望というものにさえ飽くようになってしまう生き物なのだと、寂しそうに笑った。

登美子も、なんともいえぬ表情でそれを見守るしかなかった。


ある日、重吉が病室の窓からふと外を見遣ると、
ちょうど敷地内に植えられていた桜の木々が、ちらほらとその花をつけ始めていた。

「桜か…今年も桜が咲いた…果たして来年、俺は桜を見ることができるのだろうか…」

寒かった冬には、春の訪れなどあるのだろうかと思う時もあったが、
今年もきちんと桜が咲いた。
まるで桜が春を引っぱってきて呼び込んだような…
そんな力強さを、ほころびつつある、凛とした小さな桜の花から感じた。

一枚一枚の透きとおるような白い小さな桜の花びらは、
幾重にも折り重なるように咲いて、
春の陽の光りを受け、淡いピンク色の、美しい輝きを見せていた。


綺麗だな…


ほんの僅かだが、厚い雲の隙間から弱々しい光が差し込んで地を照らすように、
それは、重吉の心を照らしてくれた。






綺麗な桜の花をみていると
そのひとすじの気持ちにうたれる




それから幾日が経った或る夜、
いつものように嘆き疲れ果て眠っていた重吉は、
何かに揺り動かされたかのように、思わず、ハッと床から飛び起きた。

…夢だったのか

もはやどんな夢だったのか全く覚えておらず、夢を見たかどうかも定かではない。

真夜中で、すでに消灯し真っ暗になっており、皆ひっそりと寝静まっていた。
重吉は、真っ暗闇な部屋の中で、ふうっと深い息をついて、
もう一度横になろうとした。

ふと病室の窓を見遣ると、いつも閉じているはずのカーテンが半分開いている。

登美子が閉め忘れてしまったのだろうか…

その時、重吉は、窓の外に、ふと白く光るようなものが見えた気がした。

何だろう…

重吉はそれを確かめようと、窓の方へ近づいていった。
そして、それを見て思わず息をのんだ。

それは、窓の外の桜の花が満開に、
春風にゆれているさまが、まるでちらちらと燃えているように、
誰もいない真夜中の闇に浮き上がって、
白く輝いて咲き誇っているのであった。

重吉は窓を開けて、思わず、ぼうっと、静かに燃えるように輝く桜に眺め入った。


美しいな…

…この潔らかな花の色は、桜が己自身の命を懸命に燃やして生きている色だったのだ…


桜の花は、たかだか一週間あまりの命。

だが、わずかな時間で散りゆくことを一瞬たりとて嘆いたり、悲しんだりはしない。

誰に見せるためでもない。
与えられたわずかな命をあらん限り燃やし、
静かに咲ききって、そして静かに生を終える。


それに比べ、自分は…
いつ命が尽きるのか、そのことばかりに怯え、そのことばかり考えて日がら暮らしてきた。

得てきたものを失うことを恐れ、
神にすがり、妻にすがり、何かにすがることばかり考え、
結局日々を無為に過ごしてきてしまったのではないか…


その時、春の風に乗った白色の桜の花びらが、
ひらひらと重吉の頬をなでるように触れて、地に落ちていった。

重吉は自分の不甲斐なさと桜の優しさに、ポロポロと涙を流した。


生きよう…
この桜の花びらのように
与えられた命を
ただひたむきに…


重吉は、よろよろと病室から出て、見上げるように桜を間近で眺めた。

桜は盛りをすぎ、
はらはらと
その花びらが
重吉の肩や頭の上に舞い降りてきた。

重吉は、地に舞い降りてくる白い小さな花びらを、
目を閉じて、そっと手を広げて受けとめた。



花がふってくると思う


花がふってくると思う
花がふってくるとおもう
この てのひらにうけとろうとおもう




桜も散り、新緑の5月となった。

登美子は重吉の様子が以前とは、なんとなく変わったのを感じた。

静かに横になっているのは変わらないが、
もやもやとした暗いものが、重吉の心から取り払われたような…
なんとなくではあるが、微かにそんな風に思った。

「…ちょっと…落ち着かれましたか…」

「…ああ、ありがとう…」
か細く弱々しいが、確かな声であった。


重吉は病臥の中で、小さなノートに鉛筆で絶え絶えな字で詩を書き綴っていった。

容態は思わしくなく、次第に衰弱していった。
そのうちベッドから立つことさえできなくなった。

夏が過ぎ、秋になると、おもゆを一口一口スプーンで口に入れてもらって、
やっと生きている。そんな状態になった。

それでも重吉は登美子の助けを借りながら、詩を綴り続けた。



秋のひかり


ひかりがこぼれてくる
秋のひかりは地におちてひろがる
このひかりのなかで遊ぼう



重吉の白い顔はますます白く潔らかになり、
遠くを見遣るような澄んだ瞳ばかりが印象的になっていった。


無題


神さま あなたに会ひたくなった



秋も深まった、ある朝早く、登美子が重吉のおむつを替えようとすると、大量の血便が出ていた。
仰天した登美子が慌てて医者を呼びに行くと、
医者は直ちに危篤を告げた。

重吉は高熱の中、弱々しく、思わず十字を切った。

来るべき時が来た…

意識が混濁してゆく中、重吉は自分の死を悟った。

それから数日、昏睡状態が続いた。
病人の傍らでは重吉の母と登美子、登美子の母が見守りつづけた。

ある真夜中、重吉は突然、妻登美子の名を叫んだかと思うと、
また何事もなかったかのように、平安な清い顔をして昏々と眠りに落ちた。
そして次第に脈が希薄になり、重吉は静かに息を引き取った。

秋の、夜明け前の澄んだ青い空の美しい朝のことであった。


しんと静まり返った病室から、どこからともなく美しい音色のようなものが、
空をただよっているような…
そんな感じがしてならなかった



素朴な琴

この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美しさに耐えかねて
琴はしずかに鳴りいだすだろう