らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

小説「ひとすじの桜 ある詩人の生涯 」中編

年が明けてからというもの、
重吉は風邪でよく学校を休むようになった。
地元の医者に診てもらったが、普通の風邪だといって解熱剤を出してくれるばかりだった。
しかし日に日に重吉の体は弱っていった。

らちがあかないので、登美子は意を決し、或る人の紹介をもらい、
3月、東京の病院で診てもらうことにした。

行きの東京に向かう車中、春の遊山に出掛けるらしい
中年男女数人の楽しそうなおしゃべりを聞きながら、
二人は自然に無言になってしまった。
心の中に鉛を飲み込んだような、なんとも重苦しい沈んだ雰囲気に支配されていた。

柏に移り住んで、僅か一年足らずだというのに…

二人は暗澹とした気持ちになった。



医師の診察の結果、その口から告げられた診断は、
「肺結核の第二期。茅ヶ崎の専門病院に早急に入院が必要」
という重吉にとって死刑宣告にも似た衝撃的なものだった。

隔離が必要な、かなり病状が進んだもの。
当時はただ安静と栄養を摂ることのみ。特効薬はない。
じわじわと忍び寄る死の影に怯え、
やがと死に覆い尽くされるのを待つしかない絶望的な日々。
うまく養生しても数年の命。

重吉は診断を聞いた一瞬、みるみる蒼白になった。
登美子はおろおろして付き添い、重吉を一心に励ましながら上野まで来て、
駅前の食堂に入ったが、
2人とも注文したものには、ほとんど喉が通らなかった。

柏の里の真っ暗い野の道を歩きながら、
重吉は茫然として無言だった。
登美子はその心中を想って、涙が流れてとまらなかった。



悲しみ


かなしみと
わたしと
足をからませて たどたどとゆく


あれほど明るく希望に満ちて見えた柏の野が、
もはやどこまでも果てしなく暗く、真っ暗闇に続く入り口にしか見えなかった。



柏から遠く離れた茅ヶ崎の病院に入院してからというもの、
重吉は走り書きで、淋しいから見舞いに来てくれと、妻登美子にしきりに手紙を書いた。

「丈夫でいるか、寂びしくて俺れはボンヤリしている、
お前が来るのばかり待っている、
先日、あんまりハッキリ桃の顔を夢に見て泣いた」

柏から茅ヶ崎まで当時片道3時間の道のりだったが、
登美子が病院の見舞いから家に帰ると、その後を追いかけるように、また、次の手紙が届いた。

「出来たら一日も早く来て呉れ。いろいろ話したいことがある。
だんだん少しずつ熱が上がるので私は不安だ、富子、富子、待っている
早くお前に逢いたい」

その手紙の筆跡は乱れ、苦しげだった。
登美子はそれを見ると胸がしめつけられる思いがした。

重吉はもがき苦しんでいた。
もがき苦しんでは疲れ、嘆き、またもがき苦しむ。
その繰り返しだった。

健康な時に聖書から得て血肉にしていたと思っていた、
思いやり、慈しみなどというものは、どこかに吹き飛んでしまっていた。

すがりたい、何かにすがりたい…
倒れそうな自分を誰か支えてほしい、頼む、誰か…

いつも祈りを捧げ、絶えず神のことを思っているのに、
神はなぜ自分を救ってくださらないのか、なぜなのか…

誰も答えてくれない問いを、重吉はひたすらに自分の心の中で繰り返した。



病床無題(詩神へ)


人を殺すような詩はないか



救いを求め、食い入るように、聖書を読み返したが、
健康な時は、あれほど心に感じ入った語句が浮き上がって、なにか空々しく感じる。

また、少し気力に余裕がある時は、家族のことが気になって仕方がなかった。
数え年23歳の妻と5歳の桃子と3歳の陽二。

この頼りなげな3人を残してどうして死ねようか。
生きたい…なにがなんでも…



無題


息吹き返させる詩はないか



やがて冬が来た。
太平洋の海に面した茅ヶ崎は、内陸の柏に比べれば、比較的風も弱く温暖ではあるが、
それでも朝晩はかなり冷え込んで、冬の寒さを感じざるを得ない。

冬…
それは今まで青々と息づいていた命が一旦枯れ果ててしまう季節。
重吉の心も、その冬と同じようなものだった。

葛藤、嘆き、悲しみといったものは、
ある意味、心に余力があるからこそ、そのようなものを感じることができる。

入院して半年あまり、心も疲れ果て、枯れ果ててしまって、
重吉はぼんやりとうつろに、病室の窓の外を眺めることが多くなった。



冬日

冬の日はうすいけれど
明るく
涙も出なくなってしまった私をいたわってくれる


このまま意識が薄れていって、無くなってしまえばいい…
そんなことすら思った。

しかし、しばらくすると少し気力が蘇り、
また葛藤、嘆き悲しむといったことをあてどなく繰り返した。

神は…なんのために生殺しのように自分を生かしているのか…

重吉にはわからなかった。

わからないまま月日は過ぎ去り、やがて年が暮れようとしていた。



続く