らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「人間失格」太宰治 を読むにあたり

太宰治というと、
「あんなに弱くて純粋な人はいない」という人もあれば、
「人の心をもてあそぶ自己中心のろくでなし」という人もあります。

どちらが正しいのでしょうか。

自分的には、どちらも正しい、正確にいえば、どちらも間違いではないと思っています。

要はその人それぞれの心のスタンスの在り方が、太宰治像を変化させる。
そんな感じに捉えています。

しかし、多かれ少なかれ、太宰治に限らず人物像には人それぞれのぶれがあるものですが、
太宰治ほど、そのぶれが大きい人間もあまり見かけません。

その理由は、太宰治がもつ、もしくは表現する「弱さ」の捉え方にあると思っています。

そしてその「弱さ」というものを最もよく表現しているものが、
人間失格」であると思います。
ですから「人間失格」は太宰治を知るには避けて通れぬ彼の代表作であると、自分も思います。

もちろん、自分自身もそれなりの太宰治像を持ってはいますが、
「そもそも太宰治とは~」とここで論じることは、
彼の最も望んでいた術中にハマることになりそうですので、やめておきます。

太宰治という人は、人の気を引くのに非常に長けた人です。
彼自身の意識、エネルギーのかなりの部分がそれに費やされてきたと言ってもいいでしょう。
それは必ずしも悪い意味ばかりではありませんけれども。

女性への気の引き方、芥川賞受賞騒動、数々の心中未遂、
その他細々とした、ものを含んだような言動。
 
「人々の気を引く」ということは彼の作品にもよく表れています。
人間失格」「斜陽」などネーミングのうまさ。
冒頭「子供より親が大事、と思いたい。」
という世間で思っていることと真逆の命題で始まる「桜桃」。

パッと目にした瞬間、何事か?と思わず読み入ってしまいます。

彼が20年遅く生まれるか、20年長生きしていたら、テレビ時代の寵児になっていたかもしれません。
テレビに代表される現代社会は、
いかに短い時間にインパクトあるフレーズを、人々の心に植え付けることができるか、
が重要視されてきた部分がありますから。

人々の気を引くということに関しては、「人間失格」においてもそれは顕著です。
作中、親が地方の有力者で仕送りを受けて云々、鎌倉の海での心中未遂などなど
太宰治の人生を記したと思われても仕方のないエピソードが多々作品には盛られ、
これは太宰治私小説ではないかという人もいます。

しかし「人間失格」を私小説として太宰治の本当の出来事ではないかを議論することは、
あまり意味のあることではないと思います。

たとえ彼が生きていて、それを尋ねたとしても
「さあ…本当のようなそうでないような…」と曖昧に煙に巻かれるか、
無言で含み笑いされるかではないかと思います。
彼は自分にできるだけ関心を持っていて欲しいと願っている節が随所にあります。
しかし、結論を言ってしまえば、話はそこで終わりですから。

作中でも事実と虚構を緻密に織り交ぜ、事実かどうかを巧妙に分からなくしていると思われる
部分が見受けられます。
人間誰しも持つ「弱さ」、そしてそれが作者の体験かどうかを含め、
作中謎解きのように描写されている。

この辺りは人間誰しも持つ「エゴイズム」、
恋愛関係における描写が謎解きのように描写されている、
夏目漱石「こころ」と似ている気もします。

人間失格」と「こころ」が戦後、いわゆる古典文学の売上の1、2を争ってきたそうですが、
両作品は意外に構造的に似ているのかもしれません。

というわけで、「人間失格」の記事については、彼の術中にはまらぬよう、
あくまでも作品自体の主人公葉蔵についての感じたことを述べたいと思っています。

術中にはまらぬように…と言っているのは、決して太宰治が嫌いだからではありません。
堂々巡りになって、あーでもない、こーでもないと、
おそらく結論が出ないのではないかと思うからなのです。
前述に、そもそも太宰治とは~という議論はしないと言いましたが、
それは同じ趣旨です。

人間のもつ「弱さ」について、自分でも納得できる、いい記事が書ければと思っています。