らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「太宰治情死考」坂口安吾

 
(太宰治情死の当時の映画ニュース)
 
 
明日6月19日は桜桃忌。
1948年6月13日、太宰治は愛人といわれる山崎富栄と玉川上水にて入水自殺しました。
享年38歳。

しかし、遺体が上がったのは6日後の19日であったので、
その日を「桜桃忌」として太宰治を偲ぶ日となっています。
まあ、そうしますと18日の今日は、
まだ玉川上水の底に沈んでいたわけです。

当時、人気絶頂に迎えようとしていた太宰治がなぜ死んだのか、
かなり物議をかもしたようですが、
青空文庫において太宰治の自殺について
二人の作家が作品を書いていますので、
それぞれ取り上げてみたいと思います。

今回は坂口安吾太宰治情死考」。
坂口安吾は太宰と同じ無頼派に属する作家で、
個人的にもかなりプライベートな親交があったようです。
前にも彼の作品を取り上げましたが、
坂口安吾「母」http://blogs.yahoo.co.jp/no1685j_s_bach/11069136.html
独自の癖のある切り口の文章は、ここでも健在で、
彼のアクというか、特徴がよく表れており、
文章として非常に面白く感じました。

まず冒頭から延々と述べられる角力トリ(相撲取り)の話。

要は何を謂(い)わんかというと、
角力トリは、角力トリでしかなく、角力のことしか知らないし、
角力トリの考え方でしか考えない。
つまり、角力トリとは、いわゆる専門バカであり、
専門外及び日常的なことについては、
時によっては不可解で、普通人に理解し難い行動をとることもある。
しかし、すぐれた角力トリは高度の文化人である。
なぜなら、角力の技術に通達し、
技術によって時代に通じているからだ。
角力技の深奥に通じる彼らは、
時代の最も高度の技術専門家の一人であり、文化人でもあるのである。

普通、専門バカというと、専門以外のことには適応できない、
という欠点の方に力点を置いて語られることが多いのですが、
この文章では専門家としての高度な能力の方に力点が置かれています。

そして文士(作家)も、角力トリと、同じく、
このような芸道に生きるものなのだと坂口安吾は言います。

だから文士たる太宰治が、
日頃どういう発言をしていたかとか、どういう行動をしていたとか、
どういうことを遺書を書いたとか、なぜ自殺したとか、
そんなことは芸道に生きる者の専門外のことで、取るに足りないことであると言います。

曰わく、太宰の自殺は、自殺というより、芸道人の身もだえの一様相であり
こういう悪アガキはそッとしておいて、
いたわって、静かに休ませてやるがいい。と

そして更に言うには、
太宰治という人間を真剣に論じたいのであれば、
彼の作品を読むべきである。と言います。
なぜなら、文士は小説の深奥に通じるため、
全てのエネルギーはその中に注ぎ込まれており、
作品こそ、そのすべてであるからである。

曰わく、どんな仕事をしたか、芸道の人間は、それだけである。
吹きすさぶ胸の嵐に、花は狂い、死に方は偽られ、
死に方に仮面をかぶり、珍妙、体をなさなくとも、
その生前の作品だけは偽ることはできなかった筈である。と。

このことについては、太宰治個人のというよりは、
坂口安吾も含めた文士(作家)全てについて当てはまることで、
世間は、表層的な奇行や理解しがたい行動言動に気を奪われず、
作家の全ての結実である作品にこそ集中するべきである。
坂口安吾太宰治の死にかこつけて、このことを強く言いたかったんでしょう。

この文章は、文学に限らず、全ての芸道に対する、
首尾一貫したいわゆる芸術バカ論となっています。

ただ、坂口安吾の言う、芸術バカというと、
ゴッホやベートーベンのように、一心不乱に芸事に集中するため、
日常において、時には非常識なことをしてしまう
というタイプを想像してしまいます。
太宰治の場合は、自ら意図的に日常において非常識なことをし、
自分に注目を向けるという観が少々感じられるようにも思われますが、
坂口安吾に言わせれば、それすらも自分の作品に心血注ぐあまりの結果であって、
程度の問題に過ぎないということなのかもしれません。