らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「人間失格」前編 太宰治

まずお断りですが、
この記事の「弱さ」については、「人間失格」の主人公葉蔵に関するものであり、
他の一般の人はおろか、直接的には太宰治に関するものでもありません。
しかし究極に「弱さ」に陥った者の描写であると感じます。

それを念頭に置いて記事を書きました。
そのようなことに注意して読んでいただければと思います。
 
 
人間失格」主人公の葉蔵は、子供の頃から、人との関わりというものがどうしても理解できず、
それを考えれば考えるほど、得体の知れない不安と恐怖に襲われる日々を送る子どもでした。

どうしてそのような異常な性格になってしまったのか、作品において非常に重要だと思うのですが、
作中直接強い動機のようなものは、具体的に描写されていません。
ただ作品全体を見渡すと、地方の有力者であった権威者及び権力者たる父、
ひいては家のしきたりの重圧といったものが大きく影響しているようです。

そのような彼が、他人と波風立てず生きてゆくのに選んだ道が道化でした。

道化とはマリオネットのような人形、すなわち人間の喜怒哀楽の表情はできても、
そこに本当の心が宿ることはない、それらしい形だけのうつろな心。
自分の本心を決して表に出すことなく、他人の心地よいがままに動く。

冒頭の、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている十歳前後の少年の写真はそれを象徴するものです。

それは学校においても同じでした。
葉蔵は悲しいまでのお調子者としての道化を演じます。

ここまで読むと、主人公葉蔵は実にかわいそうな少年です。

常に人間に対する恐怖とそれに対する逃避の繰り返し。
あたかも激する水の流れに、されるがままに翻弄される一枚の葉のような弱い存在です。

弱いものについては、守ってあげたい、情をかけてあげたいというのが普通の人間の感情というものでしょう。

しかし、悲しいかな、人間の性として、好むと好まざるにかかわらず、
同じ環境にあり続けると、知らずとそれに馴れてしまうところがあります。

弱さを道化で装うことにれる、もっと言ってしまえば、弱さに馴れてしまうと人間はどうなるか。

弱さに馴れた者は、自分の言動について、他人の反応を細かく観察することで、
それに反応する者を値踏みし、挙げ句、蔑んで馬鹿にさえするようになってゆきます。

曰わく
「女は、男よりも更に、化には、くつろぐようでした。
女は適度という事を知らず、いつまでもいつまでも、自分にお道化を要求し、
自分はその限りないアンコールに応じて、へとへとになるのでした。
実に、よく笑うのです。
いったいに、女は、男よりも快楽をよけいに頬張る事が出来るようです」

恐ろしいのは、今まで憐れみを受け、同情されるべきはずの立場の者が、相手に感謝するどころか、
その人を見下し、馬鹿にし、蔑み、もっとむしり取ってやろうという気持ちにすらなってしまうことです。


人間の弱さとは、ある種の薬物なのかもしれません。

弱さに浸かっていれば、立ち向かおうとか積極的に云々しようということとは真逆ですから、
要らぬ心労、苦労はしないでよい。
自分も無用に傷つかないで済みます。
弱さをうまくアピールできれば、情けや施しのような好意のようなものまで得られてしまうこともあります。

主人公葉蔵は美少年であったこと、ひと並み外れて頭の回転が良かったことが、更に不幸でした。
ほぼ完璧に道化を演じることができ、
弱さを、特に女性に、アピールできたため、
薬物に溺れるがごとく、どんどんと自分の弱さにはまっていきます。

作中、葉蔵が自分の弱さから抜け出そうという強い意志を示す描写はほとんどありません。

彼は居心地よくて楽なんです。
苦しいけど、そこが一番居心地がいいんです、おそらく。

一度そのようなものの味を覚えたが最後、
なかなかそこから抜けることは難しいのかもしれません。

葉蔵は好んで自分からでなく、ある意味、父親のせいでこんな風になってしまったんだから、
ちょっとかわいそうと思う方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、弱さというものは、ある意味残酷なのです。
その理由を問わず、弱さに陥った人間を同じように引きずり込んでゆきます。

そういう意味でも、やはり弱さは薬物なんです。
自分から投与しようと、他人から投与されようと体内に入ってしまえば、その害は同じ。とでも言いましょうか。


自分は「人間失格」はこのように人間の弱さについての深い掘り下げゆえ、
やはり名作として挙げざるを得ないと考えています。

弱さはふとしたことで誰もが陥ってしまうもの。
そういった意味では夏目漱石「こころ」のエゴイズムと似たようなところがあります。

ただし「人間失格」葉蔵の手記は、「こころ」の先生のように自分の体験を教え諭すような感じではありません。
ある意味、ぶちまけ、晒しだしです。

後編、自己の弱さに浸りきった葉蔵がそのまま人生を歩んでゆき、体験すること、
その描写中にも弱さについて鋭い観察、洞察が見受けられます。

それをうまく紹介することができればと願っています。