らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「こころ」先生と遺書 前編 夏目漱石



両親をほぼ同時に病で失った「先生」は信頼していた叔父に裏切られ、
遺産を横領された挙げ句、故郷と完全に決別することになる。

この時、まだ10代の「先生」は孤独感、不信感の極みにあり、
家を失い路上をさ迷う捨て猫のような心情だったでしょうが、
ひょんなことで軍人の未亡人の素人下宿に居を構えることになり、
そこで最愛の人「お嬢さん」と出会う。

先生は言う。
「私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしました。
お嬢さんの事を考えると、気高い気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。」

じっと見つめ続けるわけでなく、全く気にしない素振りをするわけでもなく、
しかし「お嬢さん」が気になって絶えず様子を窺ってしまう「先生」の仕草が、
徐々に「先生」のこころを温めていくように感じ、
自分はこの部分の描写がとても好きだ。

奥さんとお嬢さんの計らいで、温かい心持ちを取り戻した「先生」は、
かつての自分と同じ惨めな境遇にある親友Kを下宿に同居させ、
自分と同じように温かさを取り戻してもらおうと便宜を図る。
「道」のため全て余分なものを排除し、ひたすら極めようと突き進んできた一本気な性格のK。
かようなKも、「先生」の計らいで情をほだされ、
その目論見通り次第に一本気な性格が徐々にほぐれてゆく。
しかしKが「先生」に「お嬢さん」への恋心を告白したことで事態は急変する。

Kの目指す「道」からは恋愛はそれを妨げる異物であって、排除せねばならぬもので、
本来他人に告白するのは憚れることに違いない。
しかしKはこころから「先生」を信頼していたのであろう。
自分の最も恥部というべき心根の部分をさらけ出した。

Kに対して「先生」は励ますどころか、
最愛の人「お嬢さん」を奪われないため、あらゆる手段を尽くそうとする。
Kのために善を成そうとした「先生」が自己の利害を損なうと感じた途端、
一転、Kをどんな手を使っても排除しようと全力で挑みかかる。
しかも敵対者としてでなく、あくまでもKの親友として、相談に乗り力添えをするふりを装って。
それはある意味、究極のエゴイズムといえるかもしれない。

「罪のないKは穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらいに無用心でした。
私は彼自身の手から、彼の保管している要塞の地図を受け取って、
彼の眼の前でゆっくりそれを眺める事ができたも同じでした」

そのKの最も弱点をついた言葉、一撃でKを葬り去る言葉が
「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」

要は、お前が今までやってきた学問も宗教も全て無意味だったね。
というような趣旨だと思うのだが、
これはかつてKが「先生」に対し少々軽蔑気味に言った言葉。
それを「先生」がKに言うのは、
ボクシングでいうカウンターみたいなものだろうか。

この言葉に思わず逃げ出すK。
しかし「先生」はとどめを刺そうと執拗に逃げる背を追いかける。

しかし、この辺りを読んでいて、
不思議と「先生」に対する嫌悪感はない。
それは、誰の心にも、先生のような心情の因子を持っていると自覚しているからに違いないと思う。

とどめの一撃をKにお見舞いしたにもかかわらず、
それでも疑心暗鬼の「先生」は、Kを出し抜いて、
奥さんに「お嬢さん」と結婚の約束を取り付け、完全にその目的を達する。

完膚なきまでに叩きのめしたうえで、完全に手中にする。
全ては「先生」の目論見通り進んだ。

Kに対する「先生」の一連の行動を定義づけるとすれば、
それはまさにエゴイズムと呼ばざるを得ない。

最初は些細な嫉妬から始まったにすぎなかったかもしれない。
しかしその黒い一点が次第に増殖し、一人の人間の人生を完全否定して、
黒い渦となって、その中に引きずり込んでしまう恐ろしさ。

「先生」は決して根っからの悪人ではない。
むしろ心優しい、おとなしく繊細な青年である。
そんな彼が親友の人格を全否定してしまいようなエゴイズムに陥ってしまう。

エゴイズムの恐ろしさというのは、最初から大きく他人を害そうとするところでなく、
一人が少しずつ、もしくは一人一人が小さなエゴイズムを積み重ねて、
結果、大きな加害を招いてしまうことにあると思う。
特に後者の場合は、一人一人のなすエゴイスティクな所為は微々たるものであるので、
罪の意識すら希薄なのかもしれない。

エゴイズムというものをこのように観察した夏目漱石はやはり鋭いと言わざるを得ない。
現在でもこのようなエゴイズムは世に満ち満ちていると思う。

次回「先生と遺書」後編で、なぜKと先生は自殺したかを中心に書く予定です。