「子規の画」夏目漱石
「一輪花瓶に挿した東菊」図柄としては極めて単簡な者。
これが子規が親友漱石に残した唯一の自筆の絵であるそうだ。
どんな絵か見たくてネットで調べてみたが該当がない。
漱石私有でその死後どこかへいってしまったのか今となっては見ることができない。
漱石の説明によると
「色は花と茎と葉と硝子瓶とを合せてわずかに三色しか使ってない。
花は開いたのが一輪に蕾が二つだけ。葉の数を勘定して見たら、すべてでやっと九枚あった。
周囲が白いのと、表装の絹地が寒い藍なので、どう眺めても冷たい心持が襲って来てならない。」ものだそうだ。
子規の水彩画は花や植物を書いたものが現存しているのでだいたいの感じを想像することはできる。
昨年末NHK「坂の上の雲」でも子規が病床で絵を描くシーンがあった。
漱石も指摘しているが、「鶏頭」などの絵を見ても子規は寝たきりの重病人であるにもかかわらず、非常な努力を惜しまずに描いており、わずかな部分に相当の手間をかけて、どこからどこまで丹念に塗り上げている。
漱石曰わく、絵に関しては子規は初心者であり、得意の俳句のように一気呵成に仕上げることはできず、「拙(まず)くてかつ真面目である」。
下手なのは病気のせいで嘘だと思うならお前も肘をつきながら絵を描いてみろという負け惜しみにも似た子規の註釈が微笑ましくもいじらしい。
漱石は人間として文学者として最も「拙」の欠乏した男と思っていた子規のよたよたした絵から隠し切れない拙(せつ)が溢れているのを見つけた。
「拙」とは自分が理解したところによれば必ずしも要領よく手際よくできないが、ひとつの細部も誤魔化さず根気よく対象に向き合う几帳面で真摯な心持ちのことだと解釈している。
漱石は子規の死後十年を経て親友の今まで見ることのなかった一面を垣間見た。
愛すべきだが大雑把でどうしようもないと思っていた子規に愚直なまでの「拙」の部分を発見して漱石は嬉しさやら今までそれを見落としていた気恥ずかしさやらいろいろな子規への感情から思わずニヤっとしたに違いない。
惜しむらくはやはり絵が淋しすぎるのでもうちょっと賑やかしく何か付け足してくれよと注文をつけたかったというのは漱石一流の照れ隠しだと思う。
これが子規が親友漱石に残した唯一の自筆の絵であるそうだ。
どんな絵か見たくてネットで調べてみたが該当がない。
漱石私有でその死後どこかへいってしまったのか今となっては見ることができない。
漱石の説明によると
「色は花と茎と葉と硝子瓶とを合せてわずかに三色しか使ってない。
花は開いたのが一輪に蕾が二つだけ。葉の数を勘定して見たら、すべてでやっと九枚あった。
周囲が白いのと、表装の絹地が寒い藍なので、どう眺めても冷たい心持が襲って来てならない。」ものだそうだ。
子規の水彩画は花や植物を書いたものが現存しているのでだいたいの感じを想像することはできる。
昨年末NHK「坂の上の雲」でも子規が病床で絵を描くシーンがあった。
漱石も指摘しているが、「鶏頭」などの絵を見ても子規は寝たきりの重病人であるにもかかわらず、非常な努力を惜しまずに描いており、わずかな部分に相当の手間をかけて、どこからどこまで丹念に塗り上げている。
漱石曰わく、絵に関しては子規は初心者であり、得意の俳句のように一気呵成に仕上げることはできず、「拙(まず)くてかつ真面目である」。
下手なのは病気のせいで嘘だと思うならお前も肘をつきながら絵を描いてみろという負け惜しみにも似た子規の註釈が微笑ましくもいじらしい。
漱石は人間として文学者として最も「拙」の欠乏した男と思っていた子規のよたよたした絵から隠し切れない拙(せつ)が溢れているのを見つけた。
「拙」とは自分が理解したところによれば必ずしも要領よく手際よくできないが、ひとつの細部も誤魔化さず根気よく対象に向き合う几帳面で真摯な心持ちのことだと解釈している。
漱石は子規の死後十年を経て親友の今まで見ることのなかった一面を垣間見た。
愛すべきだが大雑把でどうしようもないと思っていた子規に愚直なまでの「拙」の部分を発見して漱石は嬉しさやら今までそれを見落としていた気恥ずかしさやらいろいろな子規への感情から思わずニヤっとしたに違いない。
惜しむらくはやはり絵が淋しすぎるのでもうちょっと賑やかしく何か付け足してくれよと注文をつけたかったというのは漱石一流の照れ隠しだと思う。