らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「夏目漱石先生の追憶」寺田寅彦

今回は寺田寅彦が師匠の夏目漱石を懐かしみ出会いから死に至るまでを回想した随筆です。

彼が熊本の旧制高校時代の英語の先生が夏目漱石だったそうで、この文章の寺田寅彦は先に読んだ「俳句の精神」と異なり、すっかり旧制高校の学生服を着た生徒に戻り親愛をこめて夏目先生を語っています。


旧制高校時代自宅を訪れた折、寺田青年は夏目先生に尋ねます。
「俳句とはどういうものですか?」
夏目先生は答えます。
「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。」
「扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである。」

まさに先に読んだ「俳句の精神」の根幹そのものですね。
ほぼ言い方を変えただけです。


少しへぇーっと思ったのは寿司を食べに行って漱石が海苔巻にはしをつけると寺田先生も海苔巻を食う。海老を残したら、海老を残すといった様子が目に止まったようで、漱石死後に出て来たノートの中に「Tのすしの食い方」と覚え書きが見つかったというエピソードです。
小説家というのは絵画でいうデッサンのような覚え書きをいくつも書き留めておいて小説を構築していくんだなと。
ベートーベンもメモ帳を常に持ち歩いて散策の際曲想が浮かべば書き留めたエピソードがありますが、文学でも音楽でも絵画でも同じなんですね。

自分も短歌やら俳句やらやろうとするのであれば気付いたこと感じたことをマメにメモすることが肝要なんだなと勉強になりました。


また夏目先生は江戸ッ子らしいなかなかのおしゃれで、服装にもいろいろの好みがあり、外出のときなどはずいぶんきちんとしていたと述懐していますが、そうなると正岡子規がトイレに持ち込んだ火鉢で肉を食べる行為などは相当許せなかったでしょうね。

実際寺田先生に「子規という男はなんでも自分のほうがえらいと思っている、生意気なやつだよ」などと愚痴ったりしています笑。

最後に寺田先生は夏目漱石への思いを赤裸々に吐露します。
その文章からは大人になった寺田先生は見えてこず、学生服をきた旧高の生徒の寺田青年の姿しか想像できません。
師を慕う文章は数あれどその中でも尊敬と愛情に満ちた名文だと思います。

少々長いのでここでの引用は控え、後ほど【追記】にて掲載したいと考えていますが、ぜひ読んでいただけたらと思います。

またなんでもこの随筆は「自分の主観の世界における先生のおもかげを、自分としてはできるだけ忠実に書いてみたつもりである」との事ですから、夏目漱石という人間をいろいろな観点から知りたいという方もぜひお読みになるといいと思います。