詩「ねこ」
「ねこ」
ねこ
ねこ
だれがつけたの?
やわらかくって
まるくって
あたたかくって
抱きしめたくなるような名まえを
まんまるで眠っているとき
どんな夢をみているの
抱きしめたときに出す
きゅーって声はどんな気持ちなの
なでなでしている時の
ゴロゴロという音はどこから出ているの
ねこ
ねこ
とってもかわいらしいねこ
鬼滅の刃 柱合会議 ベートーベンお勧め編
作ってみた。
異論は認めます(笑)
ご意見お待ちしております。
【クラシック音楽】鈴木舞さんヴァイオリンリサイタル
今回、ご縁があり、プライベートコンサートという形で、鈴木舞さんのヴァイオリンに接する機会がありました。
鈴木舞さんの演奏には、以前、同じような形で接したことがあり、
https://www.xn--mozo-y93c7h.com/entry/2019/08/20/115750
とても楽しみにしていました。
ヴィヴアルディ「四季」春 第一楽章
今回、立春も過ぎたので春めいた曲を。ということで。
清々にして朗々。そしてブリリアントなヴァイオリンの音色。
日本の花曇りの春のイメージではありません。
春の明るいクリアな陽射しに、花や植物、生き物たちが一斉に目覚め、ぞわぞわ動き出すという感じの演奏。
バッハ「G線上のアリア」ハ長調
クラシック音楽を聴く人はご存知かもと思いますが、
いわゆるG線上のアリアとは、管弦楽組曲第2番のエアという曲をヴァイオリンの曲に移調してアレンジしたものです。
鈴木舞さん曰く、オリジナルのニ長調の方が素晴らしいと感じているとのことで、
今回は原曲のニ長調での演奏を披露してくれました。
G 線上のアリアと言うと、
得てして、情緒的でセンチメンタルなメロディーが思い浮かびますが、
オリジナルの調で弾いたG線上のアリアは決して感傷的ではなく、
川の水が滔々と流れていくような、雲がゆっくりと空を動いていくような、
朗々と生命のいとなみを唄ってゆくような音楽。
やはり、バッハは人に対する音楽ではなく、神に対する音楽を創っていたのだと実感しました。
シューベルト「アヴェマリア」
ヴァイオリンの音色というのは、なんと人間の声に似ているのだろうと思います。
鈴木さんのヴァイオリンの音色は、演歌のこぶしのようなもので音楽を装飾し、誤魔化すものではなく、
音符に書かれた音楽の意味を真正面からみつめ、そこから感じ得た音だけで演奏するタイプだと感じます。
彼女の音のひと粒ひと粒には、しっかりと芯があるんです。それが連なって音楽を構成しているというイメージです。
ラベル「ツィガーヌ」
鈴木舞さんによる、この曲を巡るラベルとハイフェッツの逸話は面白かったです。
ラベルの前でツィガーヌの演奏を披露したハイフェッツでしたが、
曲についてあれこれ注文をつけ、ちょっとラベルを怒らせてしまったというお話です。
たなみに鈴木舞さんはハイフェッツの孫弟子にあたるそうです。
20世紀を代表する大ヴァイオリニスト
ハイフェッツ
彼女のツィガーヌを聴いて感じたのは、
なんとヴァイオリンという楽器は音色が多彩なんだろうということ。
ピアノは52鍵盤があって、鍵盤を押せばそれぞれ音が出ますが、
ヴァイオリンは4つの弦で自ら音程を作り出すところから始めなければならない。
そして、ヴァイオリンの魅力的で多彩な音色を創造する。
ヴァイオリニストという人種は何と恐ろしい才能あふれた人達なのだろうと思います。
ラベルの色彩感覚あふれる音楽を、 鈴木さんのヴァイオリンは、
清澄にしてクリア、躍動的に表現してくれました。
最後に、アナ雪とアラジンのディズニーの曲をアンコールで披露してくれましたが、
やはりポップスの曲は旋律が単純だと感じます。
特にクラシックの曲を聴いた後だとそう思います。
ポップスがクラシックに劣っているということではありません。
ポップスは親しみやすい。 単純なメロディーで構成され、誰もが口ずさめる。
しかしヴァイオリンのような多彩な音色が出せる楽器では、ちょっともったいない。
鶏を割くの牛刀を用いるがごとしとまでは言いませんが、ヴァイオリンがその真価を発揮するのは、やはり複雑で豊かな旋律をもったクラッシックの曲だと感じます。
彼女のラベルはいいですね。
こちらは彼女が10年ほど前に弾いた、ラベルのヴァイオリンソナタ。
Ravel: Violin Sonata (3rd mvmt)
なお、鈴木舞さん、最近、後援会を発足されたそうです。
とても才能のある方ですので、どうぞこちらをご覧になってみてください。
【告知】ツイッターの不具合について
「2020年1月22日現在、Android版のTwitterアプリを開くとすぐに強制終了してしまい、アプリが全く開けない不具合が発生しています。その一方で、Twitterアプリは開けるものの、リストの画面を開くと落ちてしまうという問題が発生しているユーザーも増加している模様です。」
とのことです(-_-;)
自分のツイッターも同じでして、アプリを開けない&家にパソコンが無いことから、
いただいたコメントに返信できない状態となっております。
さて、その解決策ですが、
「したがって、本日行われたTwitter社からの告知の通り、修正完了のアナウンスや、新しい修正版アップデートが配布開始されるのを待つようにしてみてください。」
とのことです。
やっぱり待つしかないんですね(^_^;)
毎日使っている便利なコミュニケーションツールがストップすると、
本当に不安な気持ちになります。
今回はたかだかツイッターのアプリ程度ですが、
インターネット全体にかかわるものであれば、
世界の機能は一時的にしろ停止してしまい、大きな混乱となることは容易に想像できます。
ということで、仕方ないので、数日くらいのんびり待つことにいたします。
なお、コメント&連絡事項があれば、こちらの記事のコメント欄までお寄せください。
よろしくお願いいたしますm(__)m
【美術】ゴッホ展6「薔薇」
ゴッホは自分が最も好きな画家のひとりですが、
精神病院に入ってピストル自殺するまでの、最晩年の時期の作品の中には痛々しくて、
思わず目を伏せてしまうようなものもいくつかあります。
「曇り空の下の積み藁」
あれほど明るい空の下、風にそよいで、金色に輝いていた麦の穂が、
ひとかたまりに無雑作に集められて積みわらにされている。
どんよりと曇った空に、カラスが飛び交い、積みわらの周りをぐるぐると回っている。
まるで麦の穂の棺桶のようです。
モネの「積みわら」とはまるで違う、打ち捨てられた孤独感のようなもの。
「カラスの群れ飛ぶ麦畑」
ちなみにゴッホ生涯最後の作品はこちら。
小林秀雄のゴッホの随筆で有名になったものですが、
モチーフはほぼ同じといってよいでしょう。
https://www.xn--mozo-y93c7h.com/entry/2016/10/25/180906
不吉な影が全体を覆っており、得たいの知れぬ不安感が拭えません。
じっと見ていると、胃の中に鉛の塊を飲み込んでしまったような、なんとも重苦しい気分になります。
「サン=レミの療養院の庭」
ゴッホは精神病院に入院しているときも絵を描き続けました。
その作品の一つがこちら。
強烈な色彩もさることながら、視点が定まらないといいますか。
画面全体がべったりとギラギラとしている印象を受けます。
「オリーブの林」
画家の神経が鋭くなりすぎて、全てに反応してしまっているというか、
とにかく全体がギラギラしていて、ぐるぐる目が回るようで、
見ていて落ち着かないんです。
「薔薇」
その中で、この「薔薇」は素晴らしい作品と感じます。
白い美しい薔薇が、淡い緑色の背景に浮き上がって、思わず白い花に目が吸い寄せられます。
清涼にして優美。
画面全体の調和が保たれ、心地よく薔薇の花を楽しむことができます。
しかしながら、ごく僅かではありますが、この作品にも、ある種の歪みのようなものを感じさせるところがあります。
最晩年のゴッホの作品は、この歪みが際立っていて、
何か車酔いのように景色がぐるぐる回ってしまう、そんな印象を強く受けます。
「オリーブを摘む人々」
しかしながら、翻って考えてみると、
普通の人間であれば、調子の良い時や気分が乗っている時には、絵を描こうという気持ちにもなりますが、
心が るぐる回ってしまっているような時にはとても絵を描くような気分にはなれません。
しかしながらゴッホは、どんな時にも、生涯絵を描き続けた。
28歳の時に画家を志して死ぬまでの間の約10年間、
その間に残した作品、油彩900点、素描1100点。
ほとんど絵について考え、描き続ける日々であったといってよいでしょう。
「炎の人」
とゴッホを形容することがあります。
絵画に魅入られたその彼の人生。
絵画というのは、紙や布に色をつけて模様や形を単に描きつけるものではありません。
もっと深く、見た人の人生を変えてしまうような、底知れぬ力を秘めた、そんな存在です。
ゴッホの絵を見ることで、自分はそれに気づかされます。
この記事で、ゴッホ展の記事は終わりです。
読んでいただいてありがとうございました。
【美術】ゴッホ展4「パイプと麦藁帽子の自画像」
ご存知の通り、ゴッホは自画像をいくつも描いています。その数なんと40点。
その理由はモデル代を払えなかったからなどと言われていますが、
お金の有る無しにかかわらず、多くの画家達は自画像というものを数多く描いています。
今回展示されていた自画像は、フェルトペンで描いたような、ちょっと現代の漫画やイラストチックで、面白い作品です。
自らをちらっと覗き込むようでもあり、茶化すようでもあり、不器用な真面目さのようでもあります。
自分はTwitterで絵を描く人との交流があり、色々な作品を楽しく拝見させていただいていますが、
自画像って描く方、あまりいらっしゃらないんですよね。
なぜでしょう?
自画像とは最も身近にある誠に興味深い題材のように思います。
そのかわり、巷では自撮りが大流行です。
この自撮りというのは、自己のチャームポイントを引き立たせ、気に入らない部分を修正するというものが大半の様ですが、
何か異様に目の大きいものがやたら多いように思います。
漫画だと違和感ない造形も、生身だと思わず後ずさりしてしまうような
バランスの悪さを感じることも(^_^;)
自分の顔とは、最も自分の近くにありながら、鏡を見るなど意識しなければ見ることのできないものです。
また、描くというのは不思議なもので、造形を辿っているうちに、自分の意識していない、自分の気づいていない内面までを描き出してしまうこともあります。
それは意識無意識かかわらず、自分が自身をどう感じているかという事でもあり、
古今東西様々な画家たちが自画像を描いてきた理由は、
時には自画像が自分の無意識部分を描き出し、
彼らにインスピレーションを与えていたのではないかと感じます。
レオナルド・ダ・ヴィンチ
ボッティチェッリ
レンブラント
ルーベンス
モネ
ルノワール
皆さんはどの自画像がお好きですか?
なお、インスピレーションといえば、ちょっと話は変わりますが、こちらの作品。
「ぼさぼさ頭の娘」ゴッホ
ぼさぼさ髪の変な髪型の少女。
まるで麦の穂のような(^_^;)
面白いでしょ。
一途に描き込むゴッホの作品の中では、茶目っ気のある、とても面白い作品に思います。
きっと彼女の髪型に麦の穂を連想して、夢中で描いたに違いない。
と勝手に想像しています(笑)
【美術】ゴッホ展3「麦畑」
農を描いたゴッホの作品や、彼が手本にしたハーグ派の作品を見た後に印象派の作品を見ると、
思わずその色彩の明るさに目を奪われます。
おそらくゴッホもそうだったに違いありません。
「オワーズ河岸の風景」セザンヌ
このセザンヌの作品は、彼としては特出する傑作という作品ではないかもしれませんが、それでも、他の同時代の画家の作品と比べると、断然目を引きます。
色彩と構図が極めて調和しており、単に風景を写した絵画とは一線を画する味わいがあります。
「花咲く林檎の樹」モネ
今回の美術展の作品でどれか一つ持ち帰っていいと言うならば、自分的には、このモネの林檎の木を描いた作品も候補です。
いつまで見ていても飽きることはありません。
それを言葉で説明しろと言われると困りますが、ある意味、モネの風景画の魔力とでも言いましょうか。
見ていると、その風景の中に自然と自分が取り込まれ、林檎の花のほのかな香りが漂ってくるようです。
白と青と緑を基調とした淡い色合いの絵ではありますが、
思わず見入ってしまう存在感があります。
モネの作品を見ていると、その世界の一瞬を切り取ったというよりも、
絶え間なく、生きて呼吸を繰り返している世界を、そのまま綴じ込めたという、そんな感じがします。
「麦畑」ゴッホ
ゴッホの麦畑を描いた作品。
自分の大好きなゴッホのテーマです。
金色はゴッホの色ですね。これほど素晴らしく、この色を使う人はいません。
見た瞬間、麦畑の鮮やかな金色が自分の中に飛び込んできます。
麦畑が、明るい光の中、気持ちよく風にそよいでいるのが目に見えるようです。
ゴッホは「モネのように人物を描くように風景を描かねばならない。」と言ったそうですが、
それは見事叶っているような気がします。
しかしながら、モネやセザンヌの作品でも感じ得られぬものが、
ゴッホの作品はあります。
それは麦畑から吹いてくる、心地よい風を受けながら、その中で、一心に絵を描いている画家の息遣い。
麦畑とキャンバスを交互に見ながら、一途に絵の具を塗って描き続けるゴッホの姿。
描いた者の念のようなものが、彼の作品には感じられるのです。
ゴッホの麦畑を見ますと、麦畑の明るさやそこに吹く風の心地よさと相まって、
ゴッホの絵に対する姿勢や思い入れ、そして、ああ、彼のひとすじな心を少しでも見習わねばという思いが交差して、
尽きるところがありません。
【美術】ゴッホ展5「糸杉」
「糸杉」ゴッホ
名画とは何か。
人によって定義はそれぞれでしょうが、自分的に言えば、
名画であることの説明のいらないもの。
色々調べたり教えてもらったりして、ああ、なるほどと納得するものではなく、
見た瞬間、自分の心の奥にズドンで入ってくるもの 。
そう答えます。
この糸杉については、当時ヨーロッパでは棺桶を作った材料の木であり、
作品から死の気配を感じさせるという解説をする人もいますが 、
自分は全くそんなことを感じませんでした。
どこまでも広がりを持って
どこまでも大きく
そしてどこまでも空に伸びてゆく
躍動感うねるような生命力
生の意欲に満ちた魂の存在感に説明は要りません 。
作品とその空間を共にするだけで、
自分の心も共鳴して幸せな気持ちになります。
自分は芸術作品に最初に触れた時の印象を非常に大切にしています。
近年、美術展では音声ガイドが貸し出しされ、俳優やタレントの方を起用している事とも相まって、人気を博しています。
確かに、その作品の背景やそれにまつわる画家のストーリーなど、作品を見ながらにして聞くことができるというのは便利ですし、なるほどと思う事もあるかと思います。
しかし、この音声ガイドには使い方があると自分は思っています。
やはり自分的には、最初は何も見ないで、まっさらの状態で作品に触れてほしい。
できるだけ既存の固定概念を排して、作品と対話して欲しい。
なぜならば、作品との直の対話で感じられたことは、
世界中のどこにも存在しない、あなたと作品との間でだけ生み出されるものだからです。
それが最初から音声ガイドを聞いてしまうと、そこから流れる既存の情報や感想に頼ってしまって、
音声ガイドの説明に、自分の見た作品の印象をあてはめようとしてしまう。
人間の心というものは弱いところがあって、
初見の、拠りどころの無いものを評価する場合には、既存の知識や意見に当てはめることに終始してしまう。
美術展に行って一番大切なものは、作品に直に触れたあなたが感じたことです。
既存の知識や世間の情報などは家にいても得ることができます。
そして音声ガイドを使う場合は、1周目は自分のインスピレーションで作品を見てみて、2周目にガイドの解説を聞いてみれば良いと思います。
その場合も最初に見た印象を、解説を聞くことで修正することは不要です。
芸術との出会いは、人との出会いに似ています。
あなたはその人の人となりを見極めるために 直に話したり、雰囲気に触れてみることによりその人間を確かめようとするはずです。
その人の履歴書や特定の人間の印象を鵜呑みにして、その人を判断するということはないでしょう。
いい芸術作品との出会いはいい人間との出会いに似ています。
出会えば、一生のつきあいになることがあります。
それは絵画だけでなく、文学や音楽など他の芸術作品でも同じでしょう。
いい作品と出会えますよう。
【美術】ゴッホ展2「ジャガイモを食べる人々」
農業に携わる人々を描くことはゴッホの大きなテーマのひとつとなっています。
農民画家ミレーの影響を受け、彼の作品を模写したり、創作を加えた作品は有名ですが、
ミレー「種をまく人」
ゴッホ「種をまく人」
この美術展では、ゴッホが影響を受けたと思われるのハーグ派の画家たちの作品の展示も数々あり、
実に興味深いものでした。
農をテーマとしたゴッホの作品の特長は、彼のオリジナルというよりは、
同時代の様々な画家たちの創意工夫を取り入れて、
自己の作品に取り入れたものだったのです。
しかしながら、手本にしたハーグ派の画家達の作品に比べると、
ゴッホの作品中の人物は動きが固く自然ではない感じがします。
少々バランスが悪いといいますか・・
背景の風景の描き込みも少ない事から、おのずから作品を観る者の目は、人物にクローズアップされるのですが、
そうすると、人物のぎこちなさが目立ってしまうんです。
また、この時期のゴッホの作品には独特の色彩が見受けられます。
暗い深緑色というべきでしょうか。
「農婦の頭部」
「器と洋梨のある静物」
こちらの静物の洋梨ですが、図録ではその構成力と色彩が対象の存在感を力強くしていると絶賛していましたが、
暗い室内に置かれているということを差し引いても、古くなってしまった洋梨というような印象で、
正直あまり食指が動かなかったといいますか(^_^;)
そして、こちらは農をテーマとするゴッホの代表作です。
「ジャガイモを食べる人々」
今回はリトグラフの作品の展示でしたが、
その元になる油絵はこちらになります。
今回、ゴッホが影響を受けた、他の画家の様々な作品を見ることで、
いきなりこの作品が生み出されたわけではなく、
様々なデッサンや創作を重ねた結果、生み出されたのだという事を初めて知りました。
芸術作品としては稚拙な部分が見受けられるという評価があるかもしれませんが、
ゴッホという画家の、考えていたこと、感じたことを辿る上では誠に興味深いものがあります。
今回の美術展はその過程をわかりやすく展示しており、
ある意味、それは芸術作品の鑑賞というよりは、
ゴッホという画家の創作の思考過程の鑑賞と言うべきであったのかもしれません。