らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【映画】ルノワール 陽だまりの裸婦

 



冒頭、ひとりの若い、絵のモデル志望の女性がルノワールの屋敷を訪れます。
そこで彼女が見たものは、枯れ木のように老いたルノワールの姿でした。

晩年、ルノワールは重度のリウマチ性疾患を患っていました。
寝ているだけでも激痛が全身を走り、手は震え、
紐で手を縛らなければ、筆を持つことさえできない有り様。

もう既に画家の大家として名声を不動のものとしていたルノワール。
なぜそうまでして彼は最後まで 絵を描こうとしたのでしょうか。

映画を見て感じたのは、ルノワールにとって描くとは生きることそのものであり、
ひたすらに最高の美を見出すということ。
このことが彼の、まさに生きるということなのだと感じます。
だから彼から絵筆を奪うのは命を奪うことと同じであり、
彼は他人にとがめられても絵筆を手放そうとはしませんでした。

そして、なぜ彼は光にこだわったのでしょうか。

こちらの絵は、ルノワールの代表作のひとつですが、
 




発表当時、この作品の女性の肌は、腐った肉のようだと酷評され、
世間から評価されることはありせんでした。
当時は不変な大理石のような白い肌が美の極地と考えられていたのです。

しかし、そうではないとルノワールは考えました。
光の中で幾重にも無限に色彩が変化する、そして、それはうつろいゆく、
一瞬のうちに消え去ってしまう、
そういうものに究極の美というものを見いだしたのです。
そして、それを追い求め、描き続けた。


この作品、全編を通じて、美しい風景に降りそそぐ光が本当に素晴らしい。
印象派の作品と光の関係は、切っても切れぬものですが、
まさにルノワールの絵画の中の光を、写し取ったかのような美しさが、
この映像にはあります。
この美しい、明るく降りそそぐ光を見るだけでもこの作品をみる価値があります。 

そして、なぜルノワールは裸婦にこだわったのか。

それは、無限に変化する、青や紫や金色の、無数の色彩の光を写し取るのに、
女性の柔らかな白い肌が最上のキャンパスだったからではないかと感じます。

この映画、とても静かな作品で、仰々しい効果音や音楽というものは、一切ありません。
あるのは自然のささやくような風の音、水の音、小鳥のさえずりのようなものだけ。

もっとルノワールの老いや病への葛藤、闘いのようなものがドラマチックに描かれているかと思いきや、
全ては自然の光の移ろいの中で、淡々と流れてゆきます。
ハリウッド映画のような、いわゆる、メリハリの効いた、時として、えぐい味の作品を見馴れていると、
どこか物足りない、ぼやっとした、はっきりしない映画だと感じられるかもしれませんが、
自分は2時間が長いとは感じませんでした。


また、この映画は、ルノワール本人についてのみならず、
かなりの部分を息子のジャンについて割いていますが、
何かを為そうと突き破る若者のエネルギーと、
自然に身を任せ、その中で静かに自らの情熱を燃やす老いたる者との
対比のようなものが描かれており、
どちらが正しく、どちらが間違っているというわけではない、
すでに成されたものの上に、新しいものが常に生起してゆく。
そんな自然のいとなみと同じ、人間のいとなみというようなものを感じました。

のちにジャンは高名な映画監督になったそうですが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB
その作品の節々には父の作品へのオマージュが見てとれるような気がします。
 





上:ジャン・ルノワール「恋多き女」
下:オーギュスト・ルノワール「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」



 
 
晩年に描いた「白い帽子の自画像」
 


映画予告編