らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「セロ弾きのゴーシュ」宮澤賢治

 
この前の記事で述べましたように、
宮澤賢治はクラシック音楽を大変愛好しており、
自らもチェロをたしなんでいました。

東京に出て、短期の個人レッスンなど受けたこともあったようですが、
普段は我流で練習せざるを得ず、腕前は、どうも今ひとつだったようです。

そんな賢治が描いた「セロ弾きのゴーシュ」。
ある町の楽団員のチェロ弾きの青年を主人公とした物語です。

ゴーシュとは、フランス語で左利きを意味し、
不器用の意にも転用されるそうです。
つまり題名は、不器用なチェロ弾きという意味が含まれ、
ある意味、賢治は、この物語の主人公に
自らを投影した部分があったのかもしれません。

宮澤賢治の作品というのは、
子どもが主人公だったり、動物が主人公だったり、
いわゆる作者自身を意識するような
登場人物はそれほど多くないのですが、
この作品の主人公ゴーシュは、
そのように、賢治そのものを描写したのではないかと
感じる部分もいくつもあります。

特に、ゴーシュが悪戦苦闘してチェロの練習する姿は、
賢治自身のそれと重なり、
作中、子狸に、二番目の糸をひくときに遅れると指摘される描写などは、
賢治自身が、実際苦手にしていた
実体験に基づくものなのかもしれませんね。

ゴーシュは、動物達にチェロの腕前のまずさを指摘され、
カリカリして、動物達に当たり散らすような行動を取っていますが、
賢治も上京した折り、
当時の新交響楽団(現在のNHK交響楽団)のチェリストに
3日間で弾けるようになりたいと頼み込んでおり、
イメージと異なり、意外と?せっかちな一面もあったようです。
ですから、案外、ゴーシュのキャラは、
賢治の人となりをよく表しているのかもしれないと思ったりしました。

ちなみに作中の楽長は、その当時の新交響楽団の指揮者斎藤秀雄氏を
モデルにしているそうです(画像下)。



 
氏を知っている人に言わせると、
ずけずけと楽員に文句をつける物言いは、
本当にそっくりだそうで、
上京して、新交響楽団を訪れた際、
賢治は、つぶさに、氏の様子を、作家の目で観察していたのかもしれませんね。

ゴーシュは本番までの短い間に、
それこそ徹夜で猛練習しますが、
なかなか上達しません。
しかし、夜な夜な現れる動物達と触れ合っているうちに、
ある時は、自分の至らぬ部分を知り、
ある時は、共に音楽を奏でることで音楽の楽しさを思い出し、
ある時は、自分のチェロが動物達の慰めになっていることを知り、
優しく奏でてやり、
本番では、口やかましい楽長も
手放しで誉めるほどの見事な出来映えを示します。


ささやかな、心をかける言葉ひとつ、ほんの少しの力の携えが、
それが積み重なっていくことで、
結果、その人を救うことができる。

そういう、ひとつひとつは、非常にささやかであるけれども、
静かで優しい自然のいとなみの素晴らしさ、美しさというようなものを
読んでいて感じます。

賢治自身、昼間の仕事を終え、
夜、独り静かにチェロの練習をしていて、
入れ替わり立ち替わり、窓の外から聴こえる動物達の気配やさえずりといったようなものから、
そのようなインスピレーションを感じたのかもしれません。

そういえば、作中、ゴーシュが懸命に練習していたのは、
ベートーベンの交響曲第6番「田園」でした。
「田園」とは、人間と自然が共生して創り出した美しい風景を讃える曲です。

ゴーシュが動物達(自然)とのやり取りを交わしていくうちに、
そのような「田園」を見事に弾けるようになるというのは、
偶然のようでありながら、
実は、賢治自身が意識して、
人間と自然が共生し、素晴らしいものを生み出す
というテーマを思案してのことだったのかもしれません。


 

画像は賢治が愛用したチェロ