らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「こころ」両親と私 夏目漱石



「両親と私」の章は前後の章に比べ論じられることが少ないように思う。
しかしこの章は田舎の「両親」と「先生」の生き方とを対比して、
「先生」の生き方を浮きぼりにする最終章の前提となる重要な章だと思っている。

「私」の田舎の両親家族は至って普通の人物である。
田舎のしがらみ、因習、義理人情、体裁などにがんじがらめに縛られて生きている人々である。
それに対し「先生」はそうしたものから全く自由である。
田舎の両親・家族は就職もしないでぶらぶらしている「先生」をエゴイストと評価する。
それに対し「私」は反発する。
エゴイストとは自己中心的、自分勝手という意味合いだとすれば、
確かに「先生」は他人に迷惑をかけて自分勝手に生きているわけではないので、
厳密な意味でエゴイストというわけではないとは思う。
ただ社会に出て活動していないだけで。

ただし今読み返すと、「先生」の生き方も積極的に評価できるという感じもしない。

自分が高校生の時は田舎の「両親」の旧態依然とした生き方に否定的だったが、
大人になって考えると、田舎のしがらみとやらも、それなりに社会の習慣を体現しているように思い、
むしろそういうものから完全に切り離された「先生」の方が根無し草で頼りなげで寂しそうにみえる。
「先生」自身も言っている。「わたしはさみしい人間です」

よく「こころ」の書評に書かれている「知識人の孤独」とはこういうことなのかなと思ったりした。

「私」が故郷に帰省している間に明治天皇崩御し、明治の世が終わり、
乃木大将が殉死するなど世の中は目まぐるしく変化する。
その間、私もなかなか思うように先生と連絡が取れない。
先生から会いたい旨の電報が届くが、父親の容態が思わしくなく会いに行くことができない。
先生と会って話がしたいフラストレーションが溜まる中、
父親の命が明日をも知れない時に先生から一通の手紙が届く。
それは尋常でない厚みのもので、父親の危篤のごたごたですぐに全てに目を通すことはできない。
ただ忙しい合間に手紙の最後の部分を斜め読みすると次の一文が目に入る。

「この手紙があなたの手に落ちる頃には、
私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう」

それにいてもたっても居られず私は東京行きの汽車に飛び乗る。

「私」はどうして「両親(父親)」でなく「先生」を選んだのだろうか。
この作品で「両親(父親)」は、昔からのしがらみや因習などに捕らわれた過去の人間の象徴のような存在。
これに対し「先生」は、未来志向といえるかは疑問ではあるが、
少なくとも過去のしがらみや因習などに捕らわれた人間の世界から放たれた存在である。

そういう理由で「私」は「両親(父親)」ではなく、
「先生」を選択したのではないかと思う。
不確かで頼りない寂しい存在ではあるけど、
自由な放たれた存在の可能性に、
若い「私」は賭けたのではないか。

危篤の父親をほったらかしにして、
先生のところに駆けつけるため汽車に飛び乗った「私」の行為に、
それほど嫌悪感を感じないのはそのあたりに理由があるのではないかと思う。

あとこの章では「先生」の過去を詳細に記した手紙を一刻も早く読みたいのだが、
なかなか読めない苛立ちを「私」とシンクロした読者は共有することになる。

それゆえ、飛び乗った汽車の中でむさぼるように手紙を読んだであろう「私」同様、
読者も最終章「先生の遺書」を一気に読んでしまう(少なくとも自分はそうだった)。
ここら辺の夏目漱石のたたみかけは非常に巧妙だと思う。

最後「先生と遺書」は今週中に掲載する予定です。