らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「武蔵野」国木田独歩

今回は国木田独歩の代表作「武蔵野」を読んでみました。

これは一言でいえば武蔵野の自然賛歌といったもので、
小説というよりは、長文の散文詩がごときリズミカルで、
武蔵野の自然に対する賛美に満ち溢れています。

まるで武蔵野が呼吸をして生きているがごとくで、
独歩はその息吹を静かに耳を立てて聴いています。
ある時は風のそよぐ、鳴る、うそぶく、叫ぶ声。
ある時は栗が大地に落ちる音が聞こえるほどの静寂。
ある時は時雨(しぐれ)の人なつかしいささやくがごとき趣(おもむき)。
武蔵野を散策していて、たとえ道に迷っても
為されるがままに聞くべきを聞き感ずるべきを感ずべく
武蔵野に抱かれて一体になっています。
それは武蔵野に住む人々も同様で、
武蔵野の一部になってそこを散策する人の心を包みこみます。

このように空と野との景色が間断なく変化する様子を、
細かく観察したというか感じることができた独歩の美意識の繊細さに舌をまくばかりで、
「武蔵野」はぜひ声に出して繰り返し味わって欲しい作品です。

しかしながら現在独歩の愛した武蔵野を追体験することは大変難しい。
武蔵野が始まると独歩が言った世田谷新宿中野はもとより、その奥の小金井まで、
葦原はもとより、落葉樹の林も今はほとんどな、くぽつんぽつんとその残骸が残るのみ。
かろうじて玉川上水の両脇に残る落葉樹の列がその趣をとどめていますが、微々たるもの。

今はそのほとんどが、戦後造成された街の喧騒の中にあり、
武蔵野の息吹きはほとんど感じることができず、
昔と変わらないのは、冬の日の朝、ときおり顔を見せる雪をかぶった白い富士のみ。

確かに、更に奥の所沢の小手指、狭山の辺りは、
武蔵野の感じが今でも残っているかなあと思いますが、
そことて宅地の造成の波が押し寄せ、所詮切り取られたのものに過ぎない。

残念ながら、国木田独歩が愛した武蔵野はもう失われてしまったようです。

それだけに独歩が記した旧き良き愛すべき武蔵野を
今きちんと心にしまっておかなければならないのかもしれません。