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はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「恋を恋する人」国木田独歩





国木田独歩は代表作「武蔵野」で知られる作家ですが、
武蔵野における里山をつぶさに訪ね歩いて描写した
武蔵野の自然の清々しい空気感のようなものが非常に印象に残っています。
今回の作品の舞台はおそらく伊豆箱根あたりの温泉街なのですが、
冒頭のなにげない淡々とした情景描写の中にもその清々しさは失われておらず、
ある種、独特の清涼感のようなものを感ずることができます。

さて、この作品の題名の「恋を恋する人」。

恋というものはとても強く大きなエネルギーを持ったものです。
ですから、恋をするととても高揚した気持ちになるもの。
その高揚した気持ちというのは、
ふわふわとしたなんともいえない温かい心地の良いものなのですが、
しかし、その高揚感が薄れていくと物足りなくなって
更なる高揚を求めて新しい恋をする人がいます。 
それは、ある意味、恋の、刺激の部分に重点を置いたものといいますか、
そんなようなものが自分の「恋を恋する人」というイメージです。

しかし、この物語の大友青年は果たして恋を恋する人といえるだろうか。
自分的には恋をしているといえるのではないかと感じます。
しかもそれは、恋を恋するのではない真面目な恋です。
ただひたすらに会いたいという気持ち。
先の記事の八百屋お七もそうでしたが、恋というのはとてもシンプルなものです。
そして、四六時中そのことばかりを考えている。
その強いエネルギー。

大友青年は4年間お正さんに会いたいと思い続けていました。
その思いも自分的には、まさに恋です。

現代の自分の感覚からすると、
お正さんの大友青年に対する思いの方が、恋とは解し難い部分があります。
それは恋というよりは好意というべきものである様にも思います。
しかし、いかんせん、明治という時代の話ですから、
女性にとって恋をあらわにするということは難しく、
どうしても、お正さんの程度にとどまってしまうのかもしれません。

失恋、片思いの苦しさというのは、
恋という強いエネルギーの注ぎ口を失った、やり場のない思いから生じるものですが、
主人公は意外と?淡々と自己の心の中にそれを受け容れています。

では、やはり大友青年の想いは恋ではなかったのか。
それは恋でないというよりは、お正さんへの自らの思いに対して、
彼は真正面を向いていないような気がします。
やや斜めから物事を見ている、いってみれば、書生的と言いますか。
大人と書生(子供)との違いは、
物事を真正面から見据えて受け止めることができるか否かだと自分は思っています。
そうしますと、大人だから恋に陥らない、子供だから恋に陥るというわけではない。
大人だからこそ恋にはまってしまうことがある。
真面目で真剣だからこそ恋にはまってしまうことがある。
そこが恋の不可思議な、奥の深いところなのかもしれません。









若き日の国木田独歩
柳田国男ら友人たちと日光などを旅行して親交を深めたといいますから、
この作品はそういう時のインスピレーションを温めて生まれたものかもしれません。




以前の記事 国木田独歩「武蔵野」


青空文庫 国木田独歩「恋を恋する人」