【東日本大震災関連】母の被災体験「伊勢湾台風」後編
後編です。
地理に詳しい方はおわかりでしょうが、愛知県にある三河湾というのは、
地理に詳しい方はおわかりでしょうが、愛知県にある三河湾というのは、
知多半島と渥美半島の両腕にかかえられて守られている感じのポジションで、
いつもは波穏やかで静かな内海です。
その静かな海が伊勢湾台風時沿岸の町に襲いかかったとは本当に信じられないことです。
母の住む町の堤防を軽々と越えてきた高潮は、あっという間に町を飲み込んだそうです。
「水が来た!」と母の父(自分の祖父)が叫んだとき、
その静かな海が伊勢湾台風時沿岸の町に襲いかかったとは本当に信じられないことです。
母の住む町の堤防を軽々と越えてきた高潮は、あっという間に町を飲み込んだそうです。
「水が来た!」と母の父(自分の祖父)が叫んだとき、
普段は呑気な母もさすがに死が頭をよぎったそうです。
暴風雨で舞い上がった線路の敷石や瓦が、壁にぶち当たる音や絶え間ない風のひゅうひゅう唸る音、
暴風雨で舞い上がった線路の敷石や瓦が、壁にぶち当たる音や絶え間ない風のひゅうひゅう唸る音、
母の祖母(自分の曾祖母)が一心に念仏を唱える声、
海の水が土蔵にも入ってきたときの恐怖感は、今でも鮮明に記憶に残っているそうです。
ただ辛うじて救われたのは高潮時に満潮でなかったということと、
ただ辛うじて救われたのは高潮時に満潮でなかったということと、
三河湾沿岸は伊勢湾台風の進行方向上の位置になかったということです。
進行方向上にあった名古屋市南部や三重県四日市市は高潮が直撃し、
進行方向上にあった名古屋市南部や三重県四日市市は高潮が直撃し、
多数の方が亡くなられました。
今回の東日本大震災と同じです。
ただ今回の三陸沿岸のように津波のエネルギーが集約されるリアス式海岸ではないので、
今回の東日本大震災と同じです。
ただ今回の三陸沿岸のように津波のエネルギーが集約されるリアス式海岸ではないので、
波によって建物がなぎ倒されるという感じではなかったようです。
母のいた三河湾沿岸の町も家がなぎ倒されるというところまではいかず、
母のいた三河湾沿岸の町も家がなぎ倒されるというところまではいかず、
辛うじて床上浸水くらいで水は収まりました。
ただ当事者はそんなこと知る由もありませんし、外部の情報からも完全に遮断された状態でしたから、
ただ当事者はそんなこと知る由もありませんし、外部の情報からも完全に遮断された状態でしたから、
各々の家族が固まって必死に耐え忍び台風が過ぎ去るのを待つしかなかったのです。
夜中の午前3時くらいにようやく風が収まり家族全員土蔵から出てみると、
夜中の午前3時くらいにようやく風が収まり家族全員土蔵から出てみると、
台風一過で空には星や月が静かにきらきらと輝き恍惚の瞬間だったと言っていました。
今までの地獄が夢だったのか、今の星がきらきらと輝く静かな夜が夢なのか、
今までの地獄が夢だったのか、今の星がきらきらと輝く静かな夜が夢なのか、
しばらく家族全員放心状態だったそうです。
その後の生活ですが、数ヶ月は電気が復旧せずランプ生活だったそうです。
学校に行ってみると校舎の窓ガラスは全壊しており、クラスで亡くなった家族も数組いたとのことです。
昔ながらのなでしこや月見草が咲く土の堤防は、無機質なコンクリートに全て様変わりしてしまいました。
政府もこれを機に災害対策基本法を制定し、防災対策を総合的かつ計画的に進めるとともに、
その後の生活ですが、数ヶ月は電気が復旧せずランプ生活だったそうです。
学校に行ってみると校舎の窓ガラスは全壊しており、クラスで亡くなった家族も数組いたとのことです。
昔ながらのなでしこや月見草が咲く土の堤防は、無機質なコンクリートに全て様変わりしてしまいました。
政府もこれを機に災害対策基本法を制定し、防災対策を総合的かつ計画的に進めるとともに、
東京をはじめとする全国各地の防潮堤や堤防の建設を伊勢湾台風を基準とするように指示しています。
今回母が自分に話してくれた話はこれで終わりです。
当時母は小さい子供だったので多少記憶違いやデフォルメされている部分もあるかもしれません。
今回の東日本大震災の津波をかぶった町々を見て、当時の思い出が思わず蘇ったとのことです。
当時は今ほど政府の動きも素早くなく、国際協助といったものもあまり無かったそうです。
母は言います。
「当分の間毎日一食分抜いてでも今回被災された人達に何かしてあげなさい。」
自分自身大災害で被災してきただけに言葉に重みがあります。
今回この記事を書いて母の体験を皆さんに知らしめることができたことで、
今回母が自分に話してくれた話はこれで終わりです。
当時母は小さい子供だったので多少記憶違いやデフォルメされている部分もあるかもしれません。
今回の東日本大震災の津波をかぶった町々を見て、当時の思い出が思わず蘇ったとのことです。
当時は今ほど政府の動きも素早くなく、国際協助といったものもあまり無かったそうです。
母は言います。
「当分の間毎日一食分抜いてでも今回被災された人達に何かしてあげなさい。」
自分自身大災害で被災してきただけに言葉に重みがあります。
今回この記事を書いて母の体験を皆さんに知らしめることができたことで、
多少なりとも母に恩返しできたのではないかと思っています。