らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「南予枇杷行」河東碧梧桐

今日は高浜虚子と共に正岡子規の高弟と並び称される河東碧梧桐の作品です。

名前が難しいですが「かわひがしへきごどう」と読みます。

南予つまり現在の愛媛県南部を旅した紀行文で、節々で旅の俳句を詠んでいると思いきや一首も詠んでいません。
この旅で俳人魂が揺さぶられなかったのでしょうか。
碧梧桐の俳句目当てだったのでちょっとがっかりしながら読んでいたのですが、なかなかどうして立派な紀行文です。

南予の産物や町並み、旧跡それにまつわる歴史など満遍なくバランスよく紹介しており文章も理知的で読みやすい。

子規は「虚子は熱き事火の如し、碧梧桐は冷やかなる事氷の如し」と評したそうですが、なるほどそれがうなづける理知的でクレバーな文章だと思います。

さて「南予枇杷行」の感想としては大まかにこんな感じなのですが、もともと碧梧桐の短歌俳句目当てに読み始めた作品ですし、青空文庫には他に碧梧桐の作品が掲載されていないのでここで少し碧梧桐の短歌俳句について書きたいと思います。

前提として碧梧桐がどんなスタンスを取っていた人だったかを述べますと、虚子ともに子規門下の双璧と評されましたが、伝統的な五七五調を基調とする虚子に対し新傾向俳句から更に進んだ自由律俳句に傾倒していったとの事です。

以前正岡子規の「万葉集を読む」でも書きましたが、子規は従来固定的に考えられてきた規則にとらわれず自由にのびのびと感情の発露を歌に詠むべきことを繰り返し強調していましたので、それをつきつめていったのが碧梧桐のスタンスというところでしょうか。


赤い椿白い椿と落ちにけり


教科書にも載っている碧梧桐の代表作ですが、赤と白のコントラストが映える色彩美鮮やかな日本画の構図のような作品ですよね。視覚的に脳にダイレクトに入ってきて好きな句です。


から松は淋しき木なり赤蜻蛉


この道の富士になりゆく芒かな


この2つの作品は椿の句のような鮮やかな色彩美こそありませんが、ただ前の句の赤蜻蛉の赤は非常に映えていると思いますが、構図が素晴らしいと思います。
やはり日本画の構図を彷彿とさせますが、碧梧桐は絵の素養はあったのでしょうか。
短歌俳句の視点と絵画の視点は似ていてどちらにも応用できそうです。
与謝蕪村が俳句と絵の両方に秀でていたのはそういう部分があるかもしれません。

さて次は碧梧桐の自由律の詩です。


曳かれる牛が辻でずっと見回した秋空だ


網から投げ出された太刀魚が躍つて砂を噛んだ



どうでしょうか?
種田山頭火の作品などを知ったあとだと少々凝縮不足のような気がしないでもありません。
碧梧桐は自由律俳句の先駆者的存在で手本がありませんから試行錯誤を繰り返していたのかもしれません。
そういう意味では後進に道を開いた先駆者教育者としての価値が大きい人かもしれませんね。

自由律俳句にはこんな作品もあります。


浴衣著てあぐらかくそれぎりなのだ


「なのだ」で終わる句があるかとちょっと笑ってしまいましたが、風呂上がりでくつろいだ心を表したのがバカボンのパパみたく「なのだ」なんでしょうね。
紀行文を読んだ後この句を知ったので、例えていうなら、いつも理知的でパリッとした服装の憧れの先生が縁側でステテコ姿で無造作にうちわでバタバタあおいでいるのを見ちゃった的な印象があり軽くがっかりしてしまうところもあります笑。


碧梧桐の素晴らしい作品はまだまだあると思います。【追記】という形でまたいずれ書きたいと思います。