らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「子規と野球」斎藤茂吉

 

斎藤茂吉伊藤左千夫野菊の墓の作者)門下ですが、
伊藤左千夫正岡子規の門下なので、
斎藤茂吉正岡子規の孫弟子という関係になるのでしょうか。


現在、日本では野球が国民的スポーツとなっていますが、
明治の世になって間もなく、野球は日本に伝えられました。

それから十数年して、正岡子規は野球と出会います。
同じ頃、斎藤茂吉も野球との出会いを文中で言っておりますので、
この頃は日本各地に野球が伝えられた頃だったのでしょう。

茂吉によると、山形の百姓の間には野球は根づかなかったとあり、
根付いた愛媛松山との差が、現在の両県の高校野球の強さの差になっているのかな。
という気がしないではありません。

子規はことの他、野球が好きで、
野球のことについていろいろと著述したり、和歌を詠んだりしています。
画像は野球のユニフォームを着た正岡子規の姿です。
なかなか決まってますね(^^)
 



この「子規と野球」は、これら正岡子規の野球に関する作品について、
斎藤茂吉が講評を述べたものです。

茂吉が野球に関する子規の著述を評して、いの一番に言うのが、
「驚くべきほど明快でてきぱきしてゐる」
ということ。

ところで、皆さんは、
野球を観戦する際の心得は?
と問われたら、どのように答えますか。

子規曰わく
「球戯を観る者は球を観るべし」
と答えており、茂吉は、これを名文句と賞賛しています。

即ち
「ベースボールには只一個の球あるのみ。
而して球は常に防者の手にあり。
此球こそ此遊戯の中心となる者にして球の行く処、即ち遊戯の中心なり。
球は常に動く故に遊戯の中心も常に動く」
ゆえんとのことです。

確かに子規の答えは、野球というスポーツの核心を掴んだ、端的で明快なものといえます。

その他にも子規は
「ホームベース」「ホームイン」「アウト」などの外来語を
「本基」「廻了」「討死、除外」などの日本語に置き換えていますが、
いずれも端的に特徴を表しています。
子規の造語の中には「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」など
今も野球用語として使われているものも多々あります。

茂吉が、この部分で、何が言いたかったかというと、
物事や事象やらを、短い言葉で端的に表現するということは、
短歌俳句を詠むに不可欠なことであり、
短歌俳句の復興しようと活動した子規が、
野球について述べたものについては、それが遺憾なく発揮されていることへの
賞賛と驚きを伝えたかったのではないかと思います。

ちなみに、子規の本名は「昇(のぼる)」であり、
「のぼーる」→「の(野)ぼーる(球)」ということで、
ベースボールがいわゆる「野球」になったという話がありますが、
残念ながらこれは俗説のようです。

さらに茂吉は子規が野球について詠んだ

久方の
アメリカ人のはじめにし
ベースボールは
見れど飽かぬかも


という短歌を解説しています。曰わく、
「「久方の」といふ枕言葉は天(あめ)にかかるものだから
同音のアメリカのアメにかけた。
言葉といふものは、東西古今に通じて、自由自在を目ざしたものであり、
その資材も何でもかでもこだはることなく、使ひこなすといふことであつた」

言葉を自由に使いこなすとはこのようなことなんだよ。
と丁寧に解説しており、非常に勉強になります。
「ひさかたの」の枕詞をアメリカにかけるとは、子規らしい茶目っ気たっぷりの楽しい歌に感じます。
変に技巧を凝らした小難しい歌よりも、
こういう素朴で、ちょっぴりひねって茶目っ気のある歌の方が、個人的には好みですね(^^)

しかし、自分が、子規が詠んだ野球関連の短歌で一番好きなのは、
次の歌なんです。


打ち揚ぐる
ボールは高く
雲に入りて
又落ち来る人の
手の中に



なんていうか鮮やかに、情景が目に浮かぶんです。

打者の打ったボールが、澄んだ青空に高く舞い上がって、
空に浮かんでいる雲の中に吸い込まれる。
やがてボールは山なりに落ちてきて、外野手のグローブの中に収まってゆく。

その間の、それぞれのプレーヤーの表情や観客の声援などが聞こえてくるような気が…
みんな、野球を心から楽しんでいる。
思わず、そんな気持ちにさせてくれる歌だと感じました。