【人物列伝】33 渡辺温と及川道子
皆さんは前回記事の作品「恋」の作者渡辺温のことを知っておられるでしょうか。
今回は彼について少し述べてみようと思います。
渡辺温は1902(明治35)年北海道に生まれ、
19歳の時、映画筋書懸賞募集に応募した作品「影」が一等に入選、鮮烈な作家デビューを飾ります。
とても才能のある青年だったようで、
江戸川乱歩は渡辺温についてこう評価しています。
「私は身のほど知らずにもエドガー・アラン・ポーの名を僭しているものだが、
渡辺温君こそ、われわれの仲間では最もポーの影響の感じられる作家ではなかったか。
事実また、同君は熱心なポーの愛読者で、ポーの一行一行を味読し、理解している点、
私など遠く及ばぬところであった」
後に、彼は横溝正史編集長のもとで 「新青年」という雑誌の編集者となり、
谷崎潤一郎などとも交流するなど、文芸界で活躍します。
1924(大正13)年に小山内薫の築地小劇場で女優デビュー、
1929(昭和4)年に松竹入社。
明治座の舞台「ハムレット」で水谷八重子と共演。
八重子のハムレットに対し、道子はオフィーリアを演じ、好評を博したこともあり、
その清楚で知的なキャラクターは、熱烈なファンが多くいたそうです
渡辺温は及川道子の少女時代からの知己だったようで、
彼女は、その自叙伝において、次のように記しています。
「私は小学校の時分から、ずっと後に映画界に出るようになる迄、
よい指導者として、またよき愛護者として、
渡辺さんに、どれだけ御恩を受けているか知れません。
――冬の真中にもなお、外套をもっていないということで、
母の心を痛めさせたわたしが、
音楽学校への受験写真には、立派な外套を着ているのも、
その頃或る雑誌が懸賞でシナリオを募集した時、
それに応じて一等に当選された渡辺さんが、
懸賞の一部で私に買って下さった、思い出深い外套なのです。」
長じて二人は相思相愛となり、お互いに結婚を意識する仲となりますが、
道子の両親から彼女の病気などを理由に反対され、
二人はついに結ばれることはありませんでした。
そして、その後、渡辺温は、原稿依頼で谷崎潤一郎宅に赴いた帰路、
西宮市外夙川踏切で走行中の貨物列車に乗っていたタクシーが衝突し、急逝します。
タクシーが100メートル以上ひきずられる大事故だったそうです。
享年27歳。
この時の様子を、後年、及川道子は次のように記しています。
「道ちやん、渡辺さんが.....」
「渡辺さんが、何うなさったの、お母さん?」
只ならぬ母の聲に驚いて、思はず駆け寄つた私が、
父の打ち慄える手に広げられた夕刊を覗き込むと、
渡辺温惨死す!
いきなり、大きな活字が、私の目を覆ふてしまつたのです。
私は、私の全身から、さツと血潮の失せてゆくやうな、
寒さを感じながら、また、よろめく足を踏み耐へようとしつつも、
なほフラフラと崩折れさうになる身体を支へて、
漸くの思ひで自分の部屋へ辿り着くと、我れを忘れたやうに、机の前に座り込んで、
渡辺温探偵小説全集を取つて、その口絵の写真を開きました。
見慣れた黒の洋服に、いつもの寂しそうな顔をして居られる渡辺さん!
見詰めているうちに、其の寂しい顔が、写真の中から抜け出して、
私の頭を、胸を、いつぱいにしてしまつたのです。」
渡辺温の死後、一体彼女がどういう気持ちで過ごしていたのか、
それを記した文章をみつけましたので、
よかったら読んでみてください。
とても繊細で豊かな感性をもった女性であったことがわかります。
渡辺さんに会う記 及川道子
http://noboruizumi.blog103.fc2.com/blog-entry-276.html
その彼女も渡辺温の死から8年後、肺結核にて27歳で亡くなります。
くしくも渡辺温が不慮の事故で亡くなったのと同い年でした。
渡辺温の作品「恋」には、最後に次のような描写があります。
「ばか! まだそんなことをいっているの!」
女優は、そしてまるで楽しいピアノのような音を立てて笑いくずれました。
女優とその童話作家だという青年とは、
それから間もなく結婚して仕合せに暮しました。
内気な童話作家の青年と女優のこれ以上にない楽しい恋の成就は、
作者渡辺温と及川道子の想いを詰めこんだ作品だったといえるのかもしれません。