「西瓜」岡本綺堂
お盆は終わりましたが、まだまだ暑い夏の日が続いていますね。
夏といえば思い浮かぶものといえば、
やはり「西瓜」でしょう。
冷蔵庫で冷やして、赤いみずみずしい果肉をしゃきしゃきと食べると
一時(いっとき)夏の暑さを忘れます。
そして、もうひとつ夏といえば「怪談」。
怪談を聞くと背筋が寒くなり、思わず暑さを忘れるといいます。
これってよく考えると不思議ですよね。
怖い話を聞くと、汗だくになって暑くなるのではなく、ぞぞぞと寒くなる。
一体どういうメカニズムなんでしょうか(^_^;)
さて、今回の作品は、
冷蔵庫で冷やして、赤いみずみずしい果肉をしゃきしゃきと食べると
一時(いっとき)夏の暑さを忘れます。
そして、もうひとつ夏といえば「怪談」。
怪談を聞くと背筋が寒くなり、思わず暑さを忘れるといいます。
これってよく考えると不思議ですよね。
怖い話を聞くと、汗だくになって暑くなるのではなく、ぞぞぞと寒くなる。
一体どういうメカニズムなんでしょうか(^_^;)
さて、今回の作品は、
今紹介しました2つの夏の風物詩を併せました、
主人公の大学生の青年は、夏休みに泊まった友人倉沢の実家の離れ座敷で、
ひとり江戸時代の古びた写本を読みふけります。
そこに記してあった、或る奇怪な話。
奉公人が西瓜を届けようと風呂敷に包んで持っていったところ、
包んだ風呂敷を開けてみると、
そこには色白の女の生首が…
西瓜って確かに人間の頭くらいの大きさじゃないですか。
重さも似たようなものですし。
実際生首を持ったことはないので、イメージの重さではありますが。
風呂敷に包んであったのが西瓜でなく、
女の生首なんて本当に仰天してしまいますけれど、
風呂敷に包んだまま、棚や机の上に置いておくと、
それが西瓜なのか生首なのか、
大きさが似ていることも相まって、一見区別がつかず、
確かにある種の不気味さを感じさせます。
現代風にいえば、西瓜だと思って冷蔵庫に冷やしておいて、
食べようと冷蔵庫を開けたら、入っていたのは女の生首だった…
なんてかなりおぞましい情景です(-.-;)
帰ってきた友人倉沢に、その話の奇怪さを滔々と述べる主人公。
しかし倉沢は歯牙にもかけず、一笑に付し、まともに取り合おうとしません。
それどころか事実のひとつひとつを科学的合理的に論理的に説明して、
主人公の根拠のない臆病を笑います。
しかし、その続けざまに長沢が話をしたのは、
彼の家に伝わる奇妙な伝説。
それは二百年も昔の話、
夜中畑に忍び込んだ西瓜泥棒を集団で殴り殺してしまう。
そこには乞食のような穢い装(なり)をした老婆が、
大きな目を開けたまま死んでいた。
その以来、その西瓜畑に老婆の姿が時々にあらわれるという噂が立ち、
その畑の西瓜を食うと、
そこには乞食のような穢い装(なり)をした老婆が、
大きな目を開けたまま死んでいた。
その以来、その西瓜畑に老婆の姿が時々にあらわれるという噂が立ち、
その畑の西瓜を食うと、
家の者はみんな何かの病気に罹って死んでしまうという奇怪な出来事が。
それは土地の所有者が変わっても続き、
長沢家では西瓜を食べないことが、代々の慣習となっていた。
長沢は、それについても、西瓜を食うと祟られるという一種の神経作用か、
それは土地の所有者が変わっても続き、
長沢家では西瓜を食べないことが、代々の慣習となっていた。
長沢は、それについても、西瓜を食うと祟られるという一種の神経作用か、
さもなくば不思議の偶然だと一笑に付しますが、
その後、一旦長沢の家を離れた主人公の青年が再び戻ってきて、
そこで見たものは…
いつもと異なり、作品の内容を詳しく語らないのは、
皆さんに読んでもらってぜひ涼しくなって欲しいということと、
あと自分だけ怖がるのは癪(しゃく)なので、
道連れで皆さんにも怖がって欲しいということがあります(^_^;)
ただひとつ教訓めいたことをいいますと、
長沢のような科学的合理的思考というのは、
確かに従来の魑魅魍魎の迷信の類を打ち破って、
物事を明らかにしてきたという功績はありますが、
科学的合理的思考の度が過ぎて
その後、一旦長沢の家を離れた主人公の青年が再び戻ってきて、
そこで見たものは…
いつもと異なり、作品の内容を詳しく語らないのは、
皆さんに読んでもらってぜひ涼しくなって欲しいということと、
あと自分だけ怖がるのは癪(しゃく)なので、
道連れで皆さんにも怖がって欲しいということがあります(^_^;)
ただひとつ教訓めいたことをいいますと、
長沢のような科学的合理的思考というのは、
確かに従来の魑魅魍魎の迷信の類を打ち破って、
物事を明らかにしてきたという功績はありますが、
科学的合理的思考の度が過ぎて
恐れを知らぬ人間というのは、
彼の態度のように、どこか緩慢で高慢であり、
本来踏み入れずともよいところまで
ずかずかと土足で踏み込んでゆく印象があります。
迷信をそのままにしなければならないとか、
お化けの存在を信じければいけないということではありませんよ。
人間は科学的合理的思考を過度に信用しすぎて、
本来必要な、恐れるべき恐れというようなものを
彼の態度のように、どこか緩慢で高慢であり、
本来踏み入れずともよいところまで
ずかずかと土足で踏み込んでゆく印象があります。
迷信をそのままにしなければならないとか、
お化けの存在を信じければいけないということではありませんよ。
人間は科学的合理的思考を過度に信用しすぎて、
本来必要な、恐れるべき恐れというようなものを
失ってしまっているのではないかと、
ふと思います。
ここでいう恐れの意味は、臆病というよりは、
自己抑制もしくは対象に対する畏敬とでもいいましょうか。
我々現代人は、19世紀から20世紀初頭の人々に比べると、
科学的合理的思考というものが、
ここでいう恐れの意味は、臆病というよりは、
自己抑制もしくは対象に対する畏敬とでもいいましょうか。
我々現代人は、19世紀から20世紀初頭の人々に比べると、
科学的合理的思考というものが、
絶対的に人類の幸せをもたらすかということについて、
少々懐疑的であるような気がします。
しかし、これは必ずしも悪いことではないと感じます。
ここでいう恐れと打破すべき迷信の類との線引きは確かに少々難しいですが、
少なくともそのようなものが存在するのでないかと意識して生きることは、
自分達が思っている以上に、
心穏やかに生きるために必要なことなのかもしれません。
話が脱線してしまいましたが、
この作品、上手い噺家の人が語ったら
かなり怖い怪談になるような気がします。
上手い人の怪談って本当に怖いんですよね(-.-;)
少々懐疑的であるような気がします。
しかし、これは必ずしも悪いことではないと感じます。
ここでいう恐れと打破すべき迷信の類との線引きは確かに少々難しいですが、
少なくともそのようなものが存在するのでないかと意識して生きることは、
自分達が思っている以上に、
心穏やかに生きるために必要なことなのかもしれません。
話が脱線してしまいましたが、
この作品、上手い噺家の人が語ったら
かなり怖い怪談になるような気がします。
上手い人の怪談って本当に怖いんですよね(-.-;)