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はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「フランダースの犬」菊池寛訳 前編

本日は菊池寛訳「フランダースの犬」。

日本で最も人気がある物語のひとつでしょう。
昔読んだ翻訳家の訳本と内容が少し異なるような気もしますが、
明治を代表する小説家菊池寛が、オリジナルに多少アレンジを加えて翻訳しているようで、
通常の翻訳児童文学とは一線を画し、小説としてもなかな読み応えあります。

これより前に翻訳して紹介した人もいるようですが、
日本人には西洋風の名前は馴染みにくかろうと、
ネロを清、アロアを綾子、パトラッシュをブチと改変して紹介したそうで、
そこまで変えるなら清は日本画家をめざしていて、
寺にある尾形光琳の屏風絵を一度は見たいと願っていたみたく展開と思いきや、
ルーベンスと大聖堂とアントワープはそのままみたいで変な和洋折衷です。
シチューにおでんの具を入れるみたいな。

さて近年はこの物語にも賛否あって、
昔はアロアのお父さんのコゼツ旦那とネロを家から追い出した腰巾着の大家が
二大悪役で吊し上げられていましたが、
近年は頼る先があるのに行かなかったネロが悪い、
はたまた甲斐性なしの死んだおじいさんが悪いという意見まであるようです。

ちなみに自分もアニメを見たクチです。本放送の時はまだかなり小さかったのですが、再放送などと併せて何回か見ています。

アニメのネロは心優しい部分が強調されていましたが、
物語を読むと実は画家で大成を夢見る志の高い、
少し悪くいえば絵画のことに関しては融通の効かない一本気な性格なようです。

最後唯一の肉親のおじいさんの死、風車小屋火事のぬれぎぬ、
牛乳配達の仕事がなくなり収入が絶たれる、住み慣れた家からの強制退去など
これでもかというくらい不幸が襲ってきますが、
黙ってよく耐えたと思いますよ。
それはおそらく自分にはまだ絵で大成するという精神的支え、プライドがあったからで、
ですからコンクール落選はイコール画家としての自分の死ということで、
ネロの心の中の折れてしまった感はアニメの描写以上だったと思います。
 

そのように本当に全てを失ってしまったネロが、コゼツ旦那の全財産を拾ってくすねず
全てを届けたというのは人間としての本当の優しさ、強さですね。

人間自分に余裕がある時は誰でも他人に優しくできますが、余裕がない時は他人に優しくできないものです。
大金を拾ったネロはコゼツ旦那の運命を左右できるポジションにあったわけで、
大金を持って逃げ去ることもできたし、金貨を何枚かポケットに入れて放置することもできた。
しかもネロは今でいうホームレスです。

自分自身ネロと同じことができるかと問われると、
今の普通に衣食住ある状態でそれは答えられないです。
できますと言ってもいざその場に立つとできないというのは、
聖書のイエスの弟子以来よくあることで、極限に立たされないとその人の本当の力というのはわからないものです。

お金を届けたネロが、労苦をともにしたパトラッシュを置いて自分は何も口にせずに出て行ってしまったのは、
自分は施しを受けないというプライドでしょうね。
この判断は賛否両論あるみたいですが。

ネロは他人には優しいですが自分には厳しい、人を頼ったり当てにしたりしない克己の人間なんです。
ですからパトラッシュのためにパンをめぐんで下さいと物乞いしても自分のためには絶対しない。

ただアニメでは心優しい部分が強調されていますので少々その部分はわかりにくくなっている気がします。


さてちょっと予想外に長文になってしまったので続きは次回後編として載せます。



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