らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「ア、秋」太宰治









太宰治という作家は、季節感をモチーフに作品を書くような人ではありません。
中には季節にかこつけて題名をつけている作品もありますが、
いわゆる季節の風情を愛でるという感は乏しく、
言ってみれば、太宰治が嫌いな人にとっては、ひねくれた、
好きな人にとってはお茶目な作品となっています。


今回紹介する「あ、秋」も、そういえば今、秋だったねというような、
とぼけたような、すかしたようなというか、
まあ、世間が秋、秋とあんまり言うから、ちょっと私もお相伴にあずかって何か言ってみましょう
というような、
しかし、無関心を装いながら、実は世間を驚かせようとしっかり考えている、
そんな心根が垣間見えるような気もします。

ところが、ひとたび太宰の放つ言葉に耳を傾けると、
彼のインパクトある言葉の数々に、アンチといえども、唸らざるを得ません。

秋といえば思いつく言葉を書き留めたメモ。

「トンボ。スキトオル。と書いてある。
秋になると、蜻蛉とんぼも、ひ弱く、
肉体は死んで、精神だけがふらふら飛んでいる様子を指して言っている言葉らしい。
蜻蛉のからだが、秋の日ざしに、透きとおって見える。」

トンボ。スキトオル。美しい惚れ惚れとするような表現です。



「秋ハ夏ノ焼ケ残リサ。と書いてある。焦土である。」

ああ、なるほど、こんな表現もできるのか。
確かに秋の枯れ草の野はそういうように見えます。



「夏ハ、シャンデリヤ。秋ハ、燈籠。とも書いてある。」

これわかる気がします。
夏の眩しい太陽の光はシャンデリヤ。
秋の、季節の変わり目の、うつろいやすい天気の太陽はぼやっとしていて燈籠。
上手いです。


「捨テラレタ海。と書かれてある。
秋の海水浴場に行ってみたことがありますか。
なぎさに破れた絵日傘が打ち寄せられ、歓楽の跡、
日の丸の提灯ちょうちんも捨てられ、かんざし、紙屑、レコオドの破片、牛乳の空瓶、
海は薄赤く濁って、どたりどたりと浪打っていた。」

「捨テラレタ」という部分に思わずハッとします。

その他にも、

「コスモス、無残。」

「芸術家ハ、イツモ、弱者ノ友デアッタ筈はずナノニ。」

などなど。

コスモス、無残。などは現代でも通用しそうな、
まるで化粧品かなにかのポスターに書かれているコピーのような斬新さがあります。


そもそも太宰治は小説家と知られていますが、
今の時代を生きていたならば、コピーライターとして名を馳せたかもしれません。



人間失格
「生まれてすみません」
「斜陽」
「子供よりも親の方が大事と思いたい」
「富士には月見草がよく似合う」


太宰治という人は、彼の言葉を目にして、思わずハッとする、
いや、もっと正確に言えば、
太宰はどういう意味でこの言葉を言ったのだろうか?一体次はどういう言葉を吐くのだろうか?
と、思わず、太宰治という人間の言うことに関心を抱かざるを得ない、
そういう言葉を作り出すことに非常に長けています。
それはある意味、天才的と言いますか、それが彼の醍醐味でもあるのですが、
この作品でもその才能が遺憾なく発揮されています。


最後、作品は、

その他、
農家。絵本。秋ト兵隊。秋ノ蚕カイコ。火事。ケムリ。オ寺。
ごたごた一ぱい書かれてある。


と、文字通り、読み手をケムに巻いて終わりますが、
秋だけでなく、春夏冬で同じバージョンがあれば、
ぜひ読んでみたいと思う自分がいるのに気がつきます。

それは彼の言うことに関心を抱かせようとする
太宰治の術中に嵌まってしまったというところなのかもしれません(笑)







青空文庫
太宰治「ア、秋」