らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「田原坂合戦」菊池寛 補足








かち合い弾


田原坂の古戦場で多数発見されるもので、
至近距離で鉄砲を打ち合ったため、
鉄砲の弾丸と弾丸が正面からぶつかり合って一緒にひしゃけたもの。
田原坂の熾烈な戦いを象徴しています。


前回、菊池寛田原坂合戦」の記事を書きましたが、
記事から外すには、少々惜しいエピソードがいくつかあるため、
今回補足記事にて、それを書いてみたいと思います。

実は夏目漱石の小説「こころ」にも、西南戦争に関する記述は出てきます。
しかも、物語が大きく転回するきっかけになる事件としてそれは登場します。


「それから約一か月ほど経ちました。
御大葬の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。
私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。
後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。
私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だと言いました。」

「私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。
西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、
つい今日まで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、
乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。
西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。
乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。
私はそういう人に取って、
生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、
どっちが苦しいだろうと考えました。」


先の記事で、西郷軍が熊本城攻略に手間取り、
南下してくる政府軍に備えて、田原坂で防衛線を構築した話をしましたが
その頃、乃木希典は政府軍200人ほどを率いて、
田原坂と熊本城の中間付近に位置していました。
そこで西郷軍と遭遇、戦闘に突入しましたが、
西郷軍は倍の400人ほどの兵力で、
乃木軍は数的に不利ながら、しばし応戦していましたが、
敵に援軍が加わり、乃木軍の退路を断とうとしたため、
包囲される前に退却し、後方で隊列を立て直そうとしました。
しかし、その際に、連隊旗を持っていた部下が、敵中で戦死。
連隊旗は西郷軍に奪われてしまいます。

その後、西郷軍は政府軍の南下に備え、続々と集結し、
田原坂が主戦場となっていくのですが、
西南戦争全体から見れば、大局にはほとんど影響しない事件ではありますが、
乃木大将にとっては心の傷として残る大きな事件だったわけです。









さて、田原坂合戦が実際どういう戦いだったのかということですが、
こちらの地図をご覧ください。





西郷軍は田原坂の街道に沿うように山の上に陣取り、
通過しようとする政府軍を上から攻撃しました。
基本的に、下に位置する相手というのは上から全部見えていますから、的が大きいわけです。
それに対して、上に位置する相手というのは一部だけしか見えませんので、的が小さいわけです。
ですから、戦いにおいては相手の上を取った方が有利とされています。

そのような地の利もさることながら、
西郷軍の勇猛果敢な切り込みにより、
平民出身の政府軍の兵士たちはすっかり及び腰となってしまいました。
薩摩の示現流というのは、初めて見る者にとって異様なド迫力で、
思わずたじろいでしまうんですよね。
https://www.youtube.com/watch?v=9_irzlEiJQA


それに対抗して政府軍は抜刀隊を設立。
抜刀隊については、薩摩に恨みのある会津など東北諸藩の人間を当てたなどと言われていますが、
実際はそうではなく、薩摩の人間を中心に編成されたようです。
しかし、それでもなかなか正面攻撃の埒があかないため、
政府軍は方向転換し、田原坂と川を挟んだ向かいの山を占拠しそこに大砲を設置。
田原坂の西郷軍陣地に無数の砲弾を撃ち込みました。

これに対しては、さすがの西郷軍も陣形が崩れ、
そこをすかさず正面攻撃されたため、陣地を放棄し、たまらず退却。
田原坂合戦の決着はついたのです。

この戦法は戊辰戦争の上野彰義隊との戦いで、
上野山( 現在の東京の上野公園) に立てこもる幕府軍に対し、
一つ丘を隔てた加賀前田屋敷(現在の東大本郷校舎)から大砲打ち込み、
撃破した戦法と同様で、
奇しくもその時の攻撃した側の薩摩の大将は西郷隆盛でした。


西南戦争においては、政府軍は時間が経てば経つほど、
後方から兵員と武器の補給を受けることができるわけですから、
それができない西郷軍は誰の目から見てもジリ貧は明白なわけです。

政府軍のように兵員と物資の補給が豊富だと、色々な手が打てるんです。
この手がダメだったら、次の手でいこう、次の手が駄目だったらあの手で行こうというように。

政府軍の戦いを見ますと、決してミスのない戦をしてるわけではなく、
結構取りこぼしもあるし、失敗もある。
しかしそれができる、ある種の余裕があるんですよね。
それに比べ、西郷軍は兵員と物資の補給が期待できないために、
極めて選択肢が限られている。
一つのミスが軍全体の運命を変えてしまう余裕のなさを感じます。

それは、太平洋戦争におけるアメリカ軍と日本軍との関係にも似ているようにも感じます。


以上簡単ではありますが、田原坂合戦のおおまかな流れであります。


なお田原坂は激戦で多くの人が亡くなったため、
心霊現象が数多く見られる有名な所だそうです。

本当にそういうものがあるかどうか分かりませんけれども、
色々言われますが、西南戦争というのは、
薩摩の人達が親子兄弟友人それぞれ敵味方に分かれ戦った戦です。
もしそういうものがあるとするならば、
恨みつらみの怨念というものよりは、ひたすらに悲しくて切ない、
そのようなものであると感じます。


田原坂の戦いについてはいろいろ映像化されていますが、
お勧めは、最近亡くなられた加藤剛さんが主演で薩摩藩士を演じた
大河ドラマ獅子の時代」。
田原坂の地形や戦い方、戦う人達の心情が非常にわかりやすいものになっています。

https://youtu.be/Wv83KivKB5w