らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「東夷(あずまえびす)」海音寺潮五郎



           保元の乱の様子




東夷とは、古くは中国で使用された東に住む未開の野蛮人という意味で、
転じて、日本でも使われるようになりましたが、
ここでは関東の田舎者というくらいの意味でしょうか。

時代は平安末期、保元の乱の頃、
関東の二人の若い武士国高と正成が登場します。
粗野で荒くれで単純な若者です。
まあ、この間のアパッチ野球軍のような連中だと、
思っていただければよいかと思います(笑)

二人の若者は固い友情で結ばれていますが、
一人の美しい女性万寿を取り合う三角関係でもあります。

時代はめまぐるしく流転する時代、
保元の乱で、源平も親子で別れて戦う中、
二人の若者も敵味方に分かれて戦います。

戦に破れた国高は死を覚悟し、
愛する万寿を正成に取られてしまうならと、
自ら奪い取ってしまいます。
しかし、腕力で我が物にしてしまうことはしません。
結局、そのまま手をつけることなく、
女性の実家にそのまま戻そうとするのですが、
もはや世間は今までのように見てはくれまい。
そこまで好いてくださるならと、
万寿は自分を奪った国高と夫婦になる決意をします。
そして、敵味方分かれて戦い、
同じく万寿に好意を持っていた友人正成との和解となるのですが・・・


この作品に出てくる男も女も、生きることについて、
思い切りのいい覚悟があります。
思い切ったら、それに向かってまっしぐら。
かといって意固地ではありません。
誤りを指摘されると、はっと悟って、
もとの鞘に戻ってゆく素直さも持ち合わせています。

された正成は正成で、必要以上にこだわることなく、
また、勝利者として自らを一段相手より高く置くこともなく、
今まで通り淡々と接します。
肝胆照して話せば、あいつはわかるはずだという相手に対する信頼、
自分ならやつを説得できるという自信。
彼にはそれがあります。

そして、何事もなかったかのように、
いや、それ以上につきあいを深めることができる人間関係。

しかし、現代はどうでしょう。
ほんの僅かな誤解でも、
ずっと後を引いて元に収まることは難しいことがあります。
ある意味、潔癖なのです。
ちょっとの汚(けが)れも気になる。
それは、ある意味、軟弱といってもよいかもしれません。
そして、潔癖かつ軟弱な心根ゆえ、一度生じた傷を直そうとしない。
放置された傷は傷としてずっと残ってしまう。
ですから、一旦傷のついてしまった関係は、
疎遠になってゆく傾向にあります。

人間関係において、ミスをしないことが極力求められる現代。
しかし、人間とはそういうものだろうかと思います。
誤りをしない、誤解のない、コミュニケーションギャップの生じない人間関係があるだろうか。
むしろ、つきあいが深くなればなるほど、
そういうものが生じることは多くなるはずです。

良い人間関係というのは、ゴムまりのようなものだと思います。
何らかの外的要因で、形がひしゃけても、
知らずのうちに元の円い球に戻っていく。
自ずから元の形に修復する力がそこにはあるのです。

現代社会において、深い人間のつきあいが、 
難しくなったといわれて久しいものがあります。
ミスを許さぬ人間関係。
ミスから生じた傷を放置してしまう人間関係。
人を傷つけたくないというと一見優しく感じますが、
自分には、それはお互いの生命力の弱さにも映ります。
結果、何年経っても、さしさわりの部分から進展せず、
同じところの堂々巡りを続ける人間関係。
これではお互いの関係を深めることはできません。

確かに一度ついてしまった傷は消すことができません。
しかしながら、その上から、良きものをどんどんかぶせて埋めてゆくことで、
傷は覆われて見えなくなり、知らずのうちに修復されていくものです。


スマートで潔癖でクリーンな現代。
この作品のように粗野で、荒っぽく、でこぼこした土臭い世界。
一体どちらが人間の絆をより強く結ぶことができるでしょうか。

ラストで、二人の若者が武蔵野に馬を駆けてゆく時に感じる、
野を吹き抜ける春の心地の良い風は、
そういう関係を結ぶことができた若者たちの心の内を象徴しているようにも思います。



この作品は青空文庫収録のものではありませんが、
図書館などで容易に手に入るものですから、
興味をもたれた方はぜひお読みください。
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480102485/