らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【テレビ番組】大河ドラマ 花燃ゆ6

 
 

当初の構想である、大河ドラマ「花燃ゆ」の放送に合わせて、
毎回記事を書くというのは諦めました(笑)
これからはマイペースで、じっくり書こうと思っています。
ただ、せっかく、記事に関するドラマを放送しているのですから、
皆さんの記憶が薄まらない1ヶ月くらいをメドに掲載しようとは思っています(^_^;)

今回は、こちらの回に関する話。


第13話「コレラと爆弾」
第19話「女たち、手を組む」

どうも視聴率がいまひとつの「花燃ゆ」ですが、
自分的には、それほど悪くないのではないかと思っています。

いわゆる自分達が教科書などで知っている歴史というものは、
ほんの表面的な一部といってよいものです。
それは、あたかも氷山のごとく、海の上にその姿を現しているのは、
ほんのごく僅かな一部であり、
大半の部分は目に見えない水の中に存在しているものです。

これを幕末の長州になぞらえますと、
一般に人に知られているのは、
吉田松陰桂小五郎高杉晋作伊藤博文久坂玄瑞というあたりでしょうか。
彼らは確かに歴史上の傑物であることは疑いありませんが、
彼らのみで、歴史の動かしてきたわけではありませんし、また、動かせたわけでもありません。
彼らの行動には、名も残らぬ数多くの人々が与力し、事を成してきたという側面が必ずあるはずなのです。

「花燃ゆ」は、そういう一般には知られていない人物に、
焦点を当てているところが、個人的には気に入っています。



まず、第13回に登場したほっしゃん演じる小野為八なる人物。
彼は、長崎で洋式砲術を学んでおり、帰郷して松下村塾に入塾した時は30歳でした。

ドラマの中でもありましたが、地雷火の実験を試みた際、
蟄居中で外出できない吉田松陰をおんぶして
(足が地につかなければ外に出たことにならないから)
地雷火の実験の見学に行ったというのは本当にあった話です。




おんぶして足が地につかなければセーフというのは、
今から見ますと、弛いというか微笑ましいというか、面白いですね。
自分は、このエピソード、このドラマではじめて知りました。

その後の小野為八ですが、
吉田松陰死後も、若い塾生達と行動を共にし、
外国艦船を攻撃した攘夷戦では砲戦の陣頭指揮をとり、
高杉晋作奇兵隊を結成すると、砲術の教師として兵士たちを指導しました。
その後も、第二次長州征伐(四境戦争)などにも、砲隊を率いて活躍しましたが、
戊辰戦争終結後は軍事関連から一線を退き、
写真術やバターの製造などの活動に勤しんだそうです。

このように、高杉らの活躍を陰で支え、
維新後、バターの製造など、民間にあって殖産に力を尽くした人物が
塾生の中にいたのだということを知ったことは、
自分にとって非常に有意義な事でした。

ちょっと文学的な表現かもしれませんが、
彼は、師吉田松陰をおぶった背中の温もりをいつまでも覚えており、
それが、その後の、苦しく厳しい戦いにおいて、
彼の勇気の後押しになっていたのではないかと感じています。

小野為八は、明治40年、79歳で天寿を全うし、亡くなりました。
これは、若くして亡くなった塾生が多い中で、本当に嬉しいことです。




晩年の小野為八



次に、第19回に出てきた内野謙太さん演ずる魚屋の松浦亀太郎

吉田松陰の顔というと、あの肖像画の顔を思い浮かべるほど、非常に有名で、かつ唯一のものです。

ドラマでも、松浦亀太郎が、吉田松陰肖像画を描いている描写がありましたね。

彼は当初、絵師を志し、当時の絵師は漢詩を学ぶ必要があったため、
早い時期に松下村塾に入門しました。

そして、ドラマの中でもありましたが、
吉田松陰が江戸に護送される直前、師である松陰の肖像画を描きました。




 
彼は、松下村塾で説く松陰の尊皇攘夷の思想に次第に傾倒し、
志士として生きる覚悟を、強く心の中に抱いていたようです。

松陰の死後、長州藩家老長井雅楽公武合体及び開国策に反対し、
長井を討とうとしましたが、果たせず、
「一事寸功の見るべきもの、いたずらに時の推移するを思い、
何の面目か故郷の人に逢わん」
との言葉を残し、自害します。

享年26歳。
以後、数多くの塾生が志半ばで若くして亡くなることになりますが、
彼はその一番最初の殉難者でした。

さて、この松浦亀太郎ですが 、
いくら探しても、その肖像画や写真は見つからず、
どのような人だったのかという特徴を記したものも見当たりません。
かろうじて見つかったのは、寺の無縁墓石群の中にあった彼の墓石だけでした。




 
現在、松浦亀太郎ゆかりのもので残っているものは、
彼の作品である敬愛する師吉田松陰肖像画のみなのです。

これを口惜しく残念だと思う人はたくさんいらっしゃると思います。
自分もそのひとりですから。

しかし、夏目漱石の「草枕」で、
この作品は、画家を志す若者が、独り山歩きをしながら、
芸術の在り方を模索するという作品なのですが、
その最後に次のような一節があります。




雲雀(ひばり)はのどかな春の日を
鳴き尽くし、鳴きあかし、
又鳴き暮らさなければ
気が済まんと見える。

その上
どこまでも登って行く、
どこまでも登って行く。

雲雀は屹度(きっと)
雲の中で死ぬに相違ない。

登り詰めた揚句(あげく)は、
流れて雲に入って、
漂うているうちに
形は消えてなくなって、
只(ただ)声だけが
空の裡(うち)に残るのかもしれない。



松浦亀太郎という人間の姿形は消え去ってしまっても、
師匠である吉田松陰を描いた肖像画は、今もなお、多くの人々の目に触れ、
それを描いた彼の、師匠に対する敬愛の気持ちは百数十年経った今でも伝わり続けている。
切ないですけれども、これは本当に素晴らしいことではないかと思うのです。







作画した時の松陰は、野山獄での獄中生活でやつれ気味でしたが、
松浦亀太郎は本来の生気のある松陰像を描き、
松陰もその絵を観て大変喜んだといいます。