らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【テレビ番組】大河ドラマ 花燃ゆ 2

 

第10話「躍動!松下村塾
第11話「突然の恋」
第12話「戻れない二人」


将来の予兆を匂わせつつも、今のところ松下村塾が平和な時代を描いていまして、
油断すると学園ものを見ているような錯覚に襲われてしまうところがあります(笑)

松下村塾の面々は、無名の高校の部活クラブで、
吉田松陰は、そこの、ちょっと風変わりな顧問というところでしょうか。

そして、彼の下に集う寄せ集めの弱小チームが、
名門エリートの明倫館高校に挑むという感じで、
高杉晋作はエリート高が気に入らず退学して、編入されてきた
プライドの高い、いいとこの子というところかも。

主人公の文は部活クラブのマネージャーで、
毎日起こる部活クラブの騒動をはらはらしながら見守り、
時には部員を励まし、時にはその中の優男のキャプテン格と恋愛沙汰になるという役回り。

そんな青春ラブコメ風な雰囲気も感じさせる、ここ数回の展開ですが、
これは許します(笑)

そんな事が史実として、あるわけがないだろうと言われるかもしれませんが、
これは歴史再現ドラマではなく、歴史ドラマですから、
そういう脚色があってもいいと思うのです。
例えば、久坂玄瑞が、妻である文のことを不美人と言っていたのは史実ですが、
どういう意図でその発言が為されたのかは明らかではありません。
ですから、このドラマのように、
好きな子についつい悪態をついてしまうというような解釈であってもいいと思うのです。
「幕末男子の育て方」というサブタイトルに似つかわしいソフトな解釈ではありますが(^_^;)
 
昔の大河ドラマなら、もう少し、サラッと流したところだったかもしれませんね。

しかし、大河ドラマは、やはり「歴史」ドラマですから、
なんでもかんでも自由奔放というのでは困ります。
近年の女性脚本家による大河作品は、
どちらかというと、歴史を軽視し、ドラマの要素に片寄り過ぎてたきらいがあったように思います。
自分的には「天地人」「江」のあたりは黒歴史に近いものがありました(^_^;)
新撰組!」はドラマ的要素を多分に盛り入れながら「歴史」ドラマとして成功した素晴らしい例だと思います。

名作と言われる大河ドラマは、歴史とドラマのバランスが非常に取れているものなのです。
「花燃ゆ」も、そのような名作であってほしいと願っています。
 

ところで、第10話にて、門下の吉田稔麿が江戸遊学を許されなかった時、
松陰が塾生の面々に言い放った言葉、
「諸君ら狂いたまえ。」
 
今風に言うと、キチガイになってめちゃめちゃにやってしまえ。
というようなことになってしまいますが、
当時は今とは若干言葉のニュアンスが違ったようで、
即ち「狂」とは、自分の枠に囚われないで考え、行動するということ。

松下村塾の門下に山県狂介という人物がいます。
後に伊藤博文と明治政府を支えることになる山県有朋その人ですが、
この名前は、気が違った人になれ。いう思いを込めているわけではなく、
既存の考えに縛られない人間であれ。という非常にポジティブな意味なわけです。

吉田松陰という人は、この狂と猛という言葉が好きなんですけれども、
つまりは、既定の枠にとらわれない考え方を猛烈に実践しなければならない。
というようなことでして、
先の第10話のシーンで、松陰が狂たれと激を飛ばした後、
高杉や久坂がそれこそ狂ったように雄叫びを上げて走っていたので、
あれっと思ったんですけども(^_^;)
本来はもっと落ち着いた席で述べられるべき言葉であったのかもしれません。

12回の最後、井伊直弼大老就任による日米修好通商条約締結により、
200年以上続いた鎖国が解かれることが現実になろうとしていた時節、
松陰はつぶやきます。

「狂うときが来たんじゃ・・」

つまりは、自分のみならず、日本自体も、
今までの枠組みで物事を考え、既存の考え方に縛られていたら、西洋列強に呑まれてしまう。
という危機意識を暗示している言葉でもあると思うのですが、
嵐を呼ぶ幕末の幕開けといいますか、まさにそんな感じがします。





久坂玄瑞肖像
背丈六尺の美丈夫と伝わっていますが、
残念ながら早くに亡くなったので、写真はありません。
ちょっと見てみたかったですね。