らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【12月総括】法話のようなもの

 

 

この記事が今年ラストになります。

12月は、父に死に関する記事をいくつか書かせていただきました。
これまで長々父の話をして参りましたので、
今回は、法要の際、最後に僧侶が参列者に話す法話というものがありますが、
その法話もどきといいますか、
中学生になったくらいの頃、自分が僧侶である伯父と話した、
ちょっと印象に残っているお話をして終わりたいと思います。


あれは実家のお寺で行われた、
自分の父方の祖父の何回忌かの法要の場であったと記憶しています。
たくさんの参列者が帰った後、
寺の大広間ではお客の手のつけていない料理や食べ残した料理が雑然と並べられ、
まさに宴の後というような雰囲気でした。

そこへ伯父が入ってきて
「ああ、こんなに料理が残ってしまって…もったいないなあ。」
と、傍らにいた自分に向かって、
「もぞくん、2人でこれを平らげる修行をせんか。」
と話しかけてきました。

普通、修行といいますと、断食のような我慢して耐え忍ぶものを想像しますので、
腹一杯食べることがどうして修行になるのか全くわかりません。

子供であった自分は
「どうしてそれが修行になるの?」
と伯父に尋ねました。

すると伯父は少し考えてから、
「そうさなあ、欲の行き着く先を見届ける修行とでもいうかな…」
と話を始めました。

伯父の話はこうでした。

人間には物欲、食欲などいろいろな欲が渦巻いて、取り留めもなくなっている。
そしてその欲に心が絡めとられて、
人間の本性である善がおこなわれにくくなっている。
そのような行動をとってしまうのは、
人間が欲の行き着く先にあるものを知らないから、
無限にその欲を求めて行ってしまうからだ。

「そこで、昔、弘法大師という偉いお坊様がある修行を考えたわけよ。」
伯父は続けます。

その修行とは、あるひとつの欲をとことん極めることで、
欲の果てにあるものを体感し、実感するというもの。

欲によっては、極めるには果てしないものもありますから、
頭脳明晰な弘法大師は食欲に目をつけた。
食欲というものは自分の胃袋以上のものを食べることはできませんから、
数ある人間の欲の中でも一番限界を見切ることができる欲であるというのです。

すなわち、まず、人間、とてもお腹がすいている時には、
何が出されても美味しく感謝して食べることができる。

しかし食べ続け、お腹がふくれてくると、その感謝は次第に薄れ、
ひと通り満腹になると、空腹だった時の気持ちはどこかにいってしまう。

そこからさらに食べ続けると、
もはや全てのものへの感謝はそこにはなく、
自分の好きなものだけを選り好みするようになる。

そしてさらに食べ続けると、
食べることはもはや苦痛でしかない。
口に入る一口一口は、自らを苦しめるものでしかなくなってしまう。

仕舞いには限界を超えると、
最初、空腹で感謝して口に入れた食べ物までも、
それを全て吐き出してしまうことになりかねない。

よって曰わく、
人間の欲の行き着く先は苦痛でしかない。
多ければ多いほど幸せが増すというものでは決してなく、
却って全てを元の木阿弥にしてしまうことすらある。
頼りなく思うかもしれないけれども、
少しお腹がすいて足りないくらいが、
人間は一番感謝の心を持ち続けて、一番幸せに生きることができるのだ。

「と、弘法大師様はおっしゃりたかった。とワシは思うよ。」
と伯父はここで話を締めました。


しかし、後年、ネットでいくら検索しても、
弘法大師の修行に、この食べ物をたらふく平らげる修行などというものは
どこにも見当たりません。
それによく考えると、ウチは曹洞宗の寺ですから、
そこで真言宗の修行というのも、ちょっと変な話です(笑)

一度伯父に聞いてみなければとは思ってはいますが、
いつも聞くのを忘れてしまうのです。


しかしながら、年末年始は皆さんもご馳走を食べる機会も増えるでしょうから、
ぜひ御自身でこの修行、試してみられてはいかがでしょうか。


この話はこれで終わりです。

1年間本当にありがとうございました。

皆様よいお年をお迎えください。