らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「くじけないで」より 柴田トヨ

 

前回、正岡子規の、彼の孤高ともいえる心情の短歌を紹介しましたが、
子規はしきりに短歌において写生というものを力説していました。

では具体的に写生とはいかなるものをいうのでしょうか。
子規は万葉集を範に取り、いくつかの例を挙げていますが、
今回は、自分がここ最近において、
これは素晴らしい写生の作品ではないかというものを紹介しようと思います。



思い出


子どもが
授かったことを
告げた時
あなたは
「ほんとうか 嬉しい
俺はこれから
真面目になって
働くからな」
そう 答えてくれた

肩を並べて
桜並木の下を
帰ったあの日
私の 一番
幸せだった日




若い夫婦が自分たちの子どもが出来た事を、
共に喜び合う素晴らしい歌に思います。
詩を詠んだ人は自分が一番嬉しくて幸せだった瞬間を、
その脳裏にある情景を丹念に思い起こしながら、
言葉をひとつひとつ思いつき、塗り重ねていくことで
作品を完成させたように感じます。

自分に赤ちゃんが出来たことを告げた瞬間の夫の顔、
わたしにかけてくれた優しい言葉、その時二人の周りの景色の様子、
春で空気は二人を包むように暖かく、
二人の気持ちを祝福し、象徴するかように桜が満開に咲き誇っていた。

それはあたかも絵を描く際に、
ああ、この部分は、この色ではなかっただろうかと、
何度も何度も色を重ねて塗り込めるように、
ゆっくりとその瞬間の自分の気持ちの色合いを確かめながら言葉を重ねていった。

まさに写生とはそういうことなのだと自分は思います。

優れた写生の作品というのは本当に不思議です。
言葉のひと粒ひと粒に実がこもっているからでしょうか。
その言葉を心の中に入れた瞬間、
自分自身もぱあっと花開くようにその思いが広がるといいますか、
あたかもその場に自分が一緒にいたような、
もっと言ってしまえば、この人と同体となって、
その場で一緒に感じているような気持ちにすらなります。

優れた写生の言葉というのは、
下に塗り込められ表面には表れてこないような色でも
表現の奥行きというものを形作るように、
こういう気持ちだったのだろうか、ああいう気持ちだったのだろうかと、
言葉を幾重にも重ねるうちに、ひとつの言葉の中に様々な思いが塗り込められ広がりをもってゆく。
そんな感じがします。

翻って技巧や修辞を強調する作品というのは
子規風にいえば、表面的な見たくれのよさを整えるため、
素朴な、実のある写生というものが疎かになってしまう。
そのような句にありがちなフィクション的な情景や心情というものは、
言葉に塗り込められた実というものが乏しいため、
どうしても表層的な薄っぺらさを感じてしまうのかもしれません。


実は今回紹介した作品、
作者は、70年前の自身の思い出を紐解いて、この作品を創作したものなんです。
70年前というと、ええっ!そんな昔のこと!?
と思うかもしれませんが、
この人にとってそれは宝石のように光り輝く大切な思い出で、
ずっと心の中に大事にしまってあったものなのでしょう。

作者の名を柴田トヨさんと言います。

一人息子の勧めで詩作を始めたのは92歳の時。
産経新聞の投稿欄「朝の詩」の常連で、
詩人の新川和江さんに高く評価され、98歳にして初の詩集を出版。
今回紹介したものは、その中の作品のひとつです。

詩集「くじけないで」には、他にもこのような素晴らしい作品がいっぱいつまっています。

2013年1月に満101歳で亡くなられましたが、
かような思いを胸に旅立たれたというのは
人として本当に幸せなことに感じます。

最後にもうひとつだけ柴田さんの詩を紹介しようと思います。



秘密


私ね 死にたいって
思ったことが
何度もあったの
でも 詩を作り始めて
多くの人に励まされ
今はもう
泣きごとは言わない

九十八歳でも
恋はするのよ
夢だってみるの
雲にだって乗りたいわ





齢百間近になっても再び立ち上がり、
なおも人生を謳歌しようとするバイタリティ。
よおし、俺だってやるぞという気持ちにさせてくれる
生(せい)のエネルギーに満ちた歌です。


よかったら、この詩集、手に取ってみてください。