らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「むかしはどこにも匂いがあった」サトウハチロー

 
 
むかしはむかしは なんともいえない
すてきな匂いが どこにもあった
 

学校の帰りの 裏道は
空気の匂いが あふれていた
お寺のがけには 青ごけの
涼しい匂いが ならんでた
 
遊びによくくる 友達は
あんずの匂いが いつもした
おしゃべりしだすと たまらなく
鼻へと匂いが とびこんだ

ちいさいかわいい 小川には
メダカの匂いが 流れてた
手あみでしゃくうと 手首まで
うれしい匂いが しみこんだ

さよならあばよの ひぐれには
羽虫が匂いを 夜にした
まばたきしている 灯りには
ごはんの匂いが ふくれてた


むかしはむかしは なんともいえない
すてきな匂いが どこにもあった




皆さんはサトウハチローをご存知でしょうか。
大リーグのスズキイチロー選手のライバルではありません(笑)
40代以上の方なら、ほとんどの方がご存知かと思いますが、
それ以下の若い世代の人々はピンと来ないかもしれません。
しかし「小さい秋みつけた」や、あかりをつけましょ ぼんぼりに♪の「たのしいひなまつり」、
赤いリンゴに唇寄せて♪の「リンゴの唄」の作詞家といえば、
若い人でも、ほとんどの方が、その作品をご存知なのではないでしょうか。

かくいう自分も、秋という季節のイメージを
「小さい秋みつけた」で摺り込まれたところがありまして、
秋に、あの歌を聞くと、しんみりした気持ちになることがあります。
言ってみれば、それほど秋というイメージを決定づけたインパクトある歌詞だということがいえます。

そんな大作詞家のサトウハチローですが、
実はメロディーにのせない通常の詩作も数多く残しています。
その作品は非常に素晴らしく、
ぜひ皆さんにも知っていただきたく、今回記事を書きました。

この「むかしはどこにも匂いがあった」は、メロディーをつければ、
70年代あたりのフォークソングにもなりそうな
素敵な懐かしさ、優しさ、哀しさ、切なさといったもの、
そして、強いメッセージ性が感じられるように思います。

自分が育った時代は、サトウハチローが亡くなった時(1973年)より後になりますが、
詩に語られているような匂いが、確かにまだありました。
彼に言わせれば、既にその時、素敵な匂いは失われつつあった時代のはずですが、
今現在に比べれば、まだまだすてきな匂いは残っていたように思います。
地方の田舎だったこともあるかもしれません。

風にそよぐ夏の田んぼの稲の匂い、
古い木造家屋が立ち並んだ町の古びた家の匂い、
用水路で捕まえたザリガニの匂い、
あと詩にも詠われていますが、
友達と遊んでいた夕暮れ時、
あちらこちらの家から晩ご飯の支度の匂いがしてきて、
走って帰ったのを思い出します。

ここでいう匂いとは、人と人とのつながり、家族とのつながり、自然とのつながり、
そして、人とその思い出をつなぐもの、
その象徴のように感じます。

しかし現代は、核家族化、更には世帯の単身化が進み、
昔ほど間近に匂いを感じることは無くなりました。
町も、道はアスファルトに舗装され、小川も護岸がコンクリートで整備され、
田んぼや畑もなくなり、鉄筋コンクリートのビルとなり、
その町独特の、あたりまえのようにあった匂いは、
時の流れと共に失われつつあります。

そして夕暮れの晩ご飯の匂いも、
お母さんが家にいて、夕方晩ご飯の支度をするというライフスタイルが失われたため、
特に都会などでは感じることができなくなってしまいました。

人と人、そして家族、住んでいる町との結びつきは次第に希薄となり、
それを象徴するすてきな匂いは、もはや消え失せつつあります。

そのようなつながりを捨て去ってまで
獲得しなければならないものとは一体何なんでしょうか。
それはすてきな匂いと引き換えにしてまで割に合うものなのでしょうか。
やはり今の世の中、偏ったものを感じざるを得ません。

以前は、当たり前のようにあった匂いですから、
昔の人は、その大切さを必ずしも認識していなかったのかもしれません。
しかし無縁社会とまで言われる現代では、
それがいかに貴重で大切なものであったか十分に認識することができるはずですし、
そういえば、自分も大人になってから、
当たり前のようにあったはずの、すてきな匂いの思い出がほとんど見当たりません。

この詩を、単にノスタルジックな思い出と捉えることは、
自分自身これからの将来失うものが非常に大きいような気がします。