らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「西瓜」永井荷風

 

去り行く夏に捧ぐ



持てあます
西瓜ひとつや
ひとり者


荷風



冒頭の俳句が、この作品の雰囲気というものを非常によく表しているように感じます。
永井荷風は、主に大正から昭和の戦後にかけて活躍した文筆家です。
代表作は「墨東綺譚」など。
これは少し前に映画にもなりましたね。
(映画)http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id151692/
その中に、やや退廃的な香りのする放蕩生活を送る
中年の金持ちの旦那が登場しますが、
これは永井荷風の人生そのものと重なる部分が往々にしてあるようです。
 
荷風の経歴を見ますと、全てにおいて整った、ある意味、羨ましい家庭環境の持ち主です。
自身の交友関係も非常に多彩で、いわゆる社交界の名士というところです。
(参考)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E8%8D%B7%E9%A2%A8

そのような社会的には何不自由ない人生を送ってきた荷風が、
還暦を迎え、老年期に至り、
自らの心情を記したのがこの随筆というわけです。

作品全体に、生涯独り身の年老いた男の
どんよりとした、ある種独特のうら淋しさを吐き出した
愚痴のようなものが見え隠れして、
それが、長々と、そして切々と綴られています。

西瓜を貰っても自分では持て余してしまうし、
かといってそれをやる家の者も居らず、ご近所さんとの交わりもない。
華やかな表の顔に比して普段の日常は意外と、
静かで、うら寂しいものだったのかもしれません。

荷風は、自らの人生で妻帯して子供をもうけなかったことが、
いかに幸福なことであったのかを
この作品の中で滔々と述べています。

それは、普通に結婚して、子供が産まれて…
という人生を送れなかった自己を慰め、納得させているようにも感じますし、
名の知れた老成の文筆家らしからぬ理屈のようなものを並べている部分もあり、
正直少し引いてしまうところもあります。

曰わく、
「女子を近づけ繁殖の行為をなさんとするに当っては、
生れ出づべき子供の将来について考慮を費さなければならない。
子供が成長して後、その身を過ち盗賊となれば世に害を残す。
子供が将来何者になるかは未知の事に属する。
これを憂慮すれば子供はつくらぬに若くはない。」

このような思考をするに至った理由としては、
荷風の、スーパーエリートだった父に比べ、
自分がその後に続くことなく、
その道から外れてしまったことに対する
コンプレックス及び自虐の念の表れなのかもしれないとも感じます。

このような老年期の男のうら淋しさのようなものは、
おそらく女性には理解できぬことと思います。
男性でも若い人は無理でしょう。
かくいう自分自身も、やはり理解というまでには
到らないものがあります。
しかし、もしかしたら、同世代の男性の間では、
何かしら共鳴しうる部分があるのかもしれないとも思います。

それにしても作品全体に散りばめられている
漢学や外国文学などの知識は多才で相当なものであることは確かです。
しかし、その知識が、惜しいかな、
自分の鬱々とした生き方を補強する道具や
くどくどした愚痴にいろどりを添えるものくらいにしか、
なり得ていない部分が見受けられます。
せっかくの多才な知識を、自己を束縛してきた因習から解き放ち、
新しい生き方を切り開くものとして使えなかったのだろうか。
人間の心の桎梏というものは、これだけの博学をもっても、
脱し得ない業の深いものなのだろうか。

誤解を恐れず言うならば、
荷風の知識は、智恵もしくは智慧には
達していないものだったのかもしれないと思ったりもします。

永井荷風ファンの方がいらっしゃったら、本当にごめんなさい。
でも「西瓜」を読む限りにおいては、
これが自分の素直な感想なんです。
また違う永井荷風作品に出会えば、
異なる彼の一面を見て、違う印象を受けることもあるでしょう。



持てあます
西瓜ひとつや
ひとり者


荷風が持てあましていたのは、
実は彼自身の人生そのものだったような気もします。