「水仙月の四日」宮澤賢治
水仙月とは宮澤賢治が創作した言葉で、
賢治のふるさと岩手では、季節的には3月から4月あたり頃をさすのではないかと言われています。
雪解けのきれいな水のほとりに咲く水仙の花を見て、
そのように名づけたのでしょうか。
非常に美しい言葉に思います。
この物語は、この地方に春先に訪れる猛吹雪を、
雪婆(ゆきば)んご、その手下の雪童子(ゆきわらす)、雪童子のしもべの雪狼という
雪の精が起こすものとして描写しています。
雪婆んごは春の嵐の雪雲の母体、雪童子はそれからうまれた小さな雪雲、
雪童子が操る雪狼は、地上に吹きつける雪や風というところでしょうか。
まことに賢治らしい巧みな比喩で、
雪婆んご、雪童子、雪狼の描写を通して、春の荒れ狂う雪嵐の様子を描いています。
例えば、雪婆んごが山に迫ってきた描写、
「雪婆んごの、ぼやぼやつめたい白髪は、雪と風とのなかで渦になりました。
どんどんかける黒雲の間から、その尖った耳と、ぎらぎら光る黄金の眼も見えます」
宮澤賢治の研究者、ロジャー・パルバース氏は
賢治のことをファンタジー作家とは位置づけていない。
非常に優れた観察眼を持ったリアリストだと思っている。
と述べたことがありますが、
この作品の雪嵐の情景は、まさにその真骨頂のような気がします。
非常に細かく春の雪嵐の様子を観察し、
雪童子達の一挙手一投足のようなものとして丁寧に擬人化し、描写しています。
惜しむらくは、自分は春の雪嵐というものを全く経験したことがない土地で生きてきましたので、
そのような情景をリアルに見て、感じたことがないということでしょうか。
この作品は、そのような春の猛吹雪に巻き込まれた子どもと雪童子とのふれあいを描いた宮澤賢治らしい自然観を表現した作品です。
雪婆んご達は、大自然が遣わした雪の精ですから、
基本的に人間に対して好悪の感情をもたず、
自然の法則に則って地上に雪嵐をもたらす存在です。
その様子は雪婆んごの台詞によく現れています。
「おや、おかしな子がいるね、そうそう、こっちへとっておしまい。
水仙月の四日だもの、
一人や二人とったっていいんだよ。」
つまり自然は人間が憎くて、その命を奪うわけではなく、
結果的にその命を奪うことになってしまうこともあるけれども、
それ自体も、大自然の大きな流れの中での出来事にすぎない。
雪婆んごのスタンスはそんなところでしょうか。
しかし、そのような自然の猛威の中でも、
それにさらされた人間は、ひょんなことで命を拾うことがあります。
それはおそらく人間の知恵ごときではどうすることもできない、
自然の偶然、天の気まぐれの成せる業というところなんでしょうが、
その部分を、雪童子が投げ入れたやどりぎの枝(やどりぎの木2番目画像参照)を大切に持っていた子どもを、
雪童子が救ってやるという描写で表現しています。
雪の精の雪童子が、雪嵐に遭遇した子どもに、
やどりぎの枝という媒介を通して、シンパシーを通わせる話に仕立てるところは、
やはり素晴らしい想像力を持っている人だと感心します。
この作品には、人間を滅ぼそうとするモンスターのような執念深い自然や、
それを克服しようと使命感に燃える人間、絶望に打ちひしがれるような人間といった
ハリウッド映画のようなものは一切登場しません。
人間に対して一番冷淡な雪婆んごでさえ、どこか人間味のあるキャラですし、
雪嵐もどこか美しく、
大地をおおう雪も、全てを凍らせる死の世界の使者のように
何かを根こそぎ奪っていくようなものとしては描かれていません。
むしろ命が芽吹く春の訪れを知らせる使者として描写されているような雰囲気すらします。
人間も自然の一部であり、人間と自然が共存、もっと言ってしまえば、一体となって生命をつないできたことへの信頼感。
そういうものをどことなく感じさせる作品であると思いました。
賢治のふるさと岩手では、季節的には3月から4月あたり頃をさすのではないかと言われています。
雪解けのきれいな水のほとりに咲く水仙の花を見て、
そのように名づけたのでしょうか。
非常に美しい言葉に思います。
この物語は、この地方に春先に訪れる猛吹雪を、
雪婆(ゆきば)んご、その手下の雪童子(ゆきわらす)、雪童子のしもべの雪狼という
雪の精が起こすものとして描写しています。
雪婆んごは春の嵐の雪雲の母体、雪童子はそれからうまれた小さな雪雲、
雪童子が操る雪狼は、地上に吹きつける雪や風というところでしょうか。
まことに賢治らしい巧みな比喩で、
雪婆んご、雪童子、雪狼の描写を通して、春の荒れ狂う雪嵐の様子を描いています。
例えば、雪婆んごが山に迫ってきた描写、
「雪婆んごの、ぼやぼやつめたい白髪は、雪と風とのなかで渦になりました。
どんどんかける黒雲の間から、その尖った耳と、ぎらぎら光る黄金の眼も見えます」
宮澤賢治の研究者、ロジャー・パルバース氏は
賢治のことをファンタジー作家とは位置づけていない。
非常に優れた観察眼を持ったリアリストだと思っている。
と述べたことがありますが、
この作品の雪嵐の情景は、まさにその真骨頂のような気がします。
非常に細かく春の雪嵐の様子を観察し、
雪童子達の一挙手一投足のようなものとして丁寧に擬人化し、描写しています。
惜しむらくは、自分は春の雪嵐というものを全く経験したことがない土地で生きてきましたので、
そのような情景をリアルに見て、感じたことがないということでしょうか。
この作品は、そのような春の猛吹雪に巻き込まれた子どもと雪童子とのふれあいを描いた宮澤賢治らしい自然観を表現した作品です。
雪婆んご達は、大自然が遣わした雪の精ですから、
基本的に人間に対して好悪の感情をもたず、
自然の法則に則って地上に雪嵐をもたらす存在です。
その様子は雪婆んごの台詞によく現れています。
「おや、おかしな子がいるね、そうそう、こっちへとっておしまい。
水仙月の四日だもの、
一人や二人とったっていいんだよ。」
つまり自然は人間が憎くて、その命を奪うわけではなく、
結果的にその命を奪うことになってしまうこともあるけれども、
それ自体も、大自然の大きな流れの中での出来事にすぎない。
雪婆んごのスタンスはそんなところでしょうか。
しかし、そのような自然の猛威の中でも、
それにさらされた人間は、ひょんなことで命を拾うことがあります。
それはおそらく人間の知恵ごときではどうすることもできない、
自然の偶然、天の気まぐれの成せる業というところなんでしょうが、
その部分を、雪童子が投げ入れたやどりぎの枝(やどりぎの木2番目画像参照)を大切に持っていた子どもを、
雪童子が救ってやるという描写で表現しています。
雪の精の雪童子が、雪嵐に遭遇した子どもに、
やどりぎの枝という媒介を通して、シンパシーを通わせる話に仕立てるところは、
やはり素晴らしい想像力を持っている人だと感心します。
この作品には、人間を滅ぼそうとするモンスターのような執念深い自然や、
それを克服しようと使命感に燃える人間、絶望に打ちひしがれるような人間といった
ハリウッド映画のようなものは一切登場しません。
人間に対して一番冷淡な雪婆んごでさえ、どこか人間味のあるキャラですし、
雪嵐もどこか美しく、
大地をおおう雪も、全てを凍らせる死の世界の使者のように
何かを根こそぎ奪っていくようなものとしては描かれていません。
むしろ命が芽吹く春の訪れを知らせる使者として描写されているような雰囲気すらします。
人間も自然の一部であり、人間と自然が共存、もっと言ってしまえば、一体となって生命をつないできたことへの信頼感。
そういうものをどことなく感じさせる作品であると思いました。