「艇長の遺書と中佐の詩」夏目漱石
撤退時に行方不明となった部下を助けるため船内を何度も捜索しましたが、
今でいう国民的ヒーローに祭り上げられました。
その広瀬中佐が出陣に臨んで、一編の漢詩を詠みました。
それについて夏目漱石が評釈したのが、この作品です。
結論から申しますと、漱石による評価はこれ以上ないというほどボロクソです。
曰わく、
高校生が名詩にかぶれて気負って作つたものと同程度の出来。
作らないでも済むのに作つたもの。
誰にでも作れる個性のないもの。
最も辛辣なのは、中佐があんな詩を作らずに、黙つて閉塞船で死んでくれたなら良かったのに。
その広瀬中佐が出陣に臨んで、一編の漢詩を詠みました。
それについて夏目漱石が評釈したのが、この作品です。
結論から申しますと、漱石による評価はこれ以上ないというほどボロクソです。
曰わく、
高校生が名詩にかぶれて気負って作つたものと同程度の出来。
作らないでも済むのに作つたもの。
誰にでも作れる個性のないもの。
最も辛辣なのは、中佐があんな詩を作らずに、黙つて閉塞船で死んでくれたなら良かったのに。
とまで言い放っており、
最後に、あんな詩によつて中佐を代表するのが気の毒だなどと皮肉的なことまで言っております。
百年経った今読んでも、おいおい漱石さんそこまで言って大丈夫?と思ってしまうほどです(^_^;)
問題の広瀬中佐の漢詩を読まずして、漱石の評釈を鵜呑みにするのはやはり良くないと思い、
百年経った今読んでも、おいおい漱石さんそこまで言って大丈夫?と思ってしまうほどです(^_^;)
問題の広瀬中佐の漢詩を読まずして、漱石の評釈を鵜呑みにするのはやはり良くないと思い、
ネットで探してきました。
まずは予断なしに読んでいただけたらと思います。
今からすると難しい熟語もありますが、漢字の意味からだいたいのニュアンスが分かればよいと思います。
広瀬武夫 正気歌
死生命あり論ずるに足らず
鞠躬唯応に至尊に酬ゆべし
奮躍難に赴きて死を辞せず
慷慨義に就く日本魂
一世の義烈赤穂の里
三代の忠勇楠氏の門
憂憤身を投ず薩摩の海
従容刑に就く小塚原
或は芳野廟前の壁と為り
遺烈千年鏃痕を見る
或は菅家筑紫の月と為り
詞忠愛を存して冤を知らず
可し正気の乾坤に満つるを
一気磅薄万古に存す
嗚呼正気畢竟誠の字に在り
呶呶何ぞ必ずしも多言を要せん
誠なる哉誠なる哉斃れるて已まず
七度人間に生まれて国恩に報いん
どうでしょう?
まず最初に思うことが、詩が長いなということ(^_^;)
内容は勇猛かつ悲壮な言葉が散りばめられており、出陣に際しての武人らしい漢詩ともいえます。
とにかく諸々の意欲が満ち満ちており、詩で言いたいことがたくさんあったんでしょう。
人によっては、勇猛かつ悲壮な言葉を散りばめて何が悪いという向きもいらっしゃるでしょう。
これはあくまで自分の考え・趣向ですが、
まずは予断なしに読んでいただけたらと思います。
今からすると難しい熟語もありますが、漢字の意味からだいたいのニュアンスが分かればよいと思います。
広瀬武夫 正気歌
死生命あり論ずるに足らず
鞠躬唯応に至尊に酬ゆべし
奮躍難に赴きて死を辞せず
慷慨義に就く日本魂
一世の義烈赤穂の里
三代の忠勇楠氏の門
憂憤身を投ず薩摩の海
従容刑に就く小塚原
或は芳野廟前の壁と為り
遺烈千年鏃痕を見る
或は菅家筑紫の月と為り
詞忠愛を存して冤を知らず
可し正気の乾坤に満つるを
一気磅薄万古に存す
嗚呼正気畢竟誠の字に在り
呶呶何ぞ必ずしも多言を要せん
誠なる哉誠なる哉斃れるて已まず
七度人間に生まれて国恩に報いん
どうでしょう?
まず最初に思うことが、詩が長いなということ(^_^;)
内容は勇猛かつ悲壮な言葉が散りばめられており、出陣に際しての武人らしい漢詩ともいえます。
とにかく諸々の意欲が満ち満ちており、詩で言いたいことがたくさんあったんでしょう。
人によっては、勇猛かつ悲壮な言葉を散りばめて何が悪いという向きもいらっしゃるでしょう。
これはあくまで自分の考え・趣向ですが、
詩というのは読んで言葉のイメージが広がるものが、優れたいい詩なのではないかと思っています。
上杉謙信が出陣時に詠んだとされる詩を参考に挙げますと
霜は軍営に満ちて秋気清し
数行の過雁月三更
越山併せ得たり能州の景
遮莫(さもあらばあれ)家郷の遠征を憶う
なにか読んでいてイメージが広がる感じがないでしょうか。
それに比べると広瀬中佐の詩はイメージの広がりが少々乏しく、字面そのままで、
上杉謙信が出陣時に詠んだとされる詩を参考に挙げますと
霜は軍営に満ちて秋気清し
数行の過雁月三更
越山併せ得たり能州の景
遮莫(さもあらばあれ)家郷の遠征を憶う
なにか読んでいてイメージが広がる感じがないでしょうか。
それに比べると広瀬中佐の詩はイメージの広がりが少々乏しく、字面そのままで、
漢詩の形をとった悲壮かつ勇猛な決意表明文というような気もしないではありません。
自分は漢詩については門外漢なので、あまり大層なことは言えません。
ただ当時、漱石が広瀬中佐の漢詩をここまでこき下ろしたのは、広瀬中佐個人が憎いわけでなく、
自分は漢詩については門外漢なので、あまり大層なことは言えません。
ただ当時、漱石が広瀬中佐の漢詩をここまでこき下ろしたのは、広瀬中佐個人が憎いわけでなく、
日露戦争後の必要以上の戦争美化への嫌悪感、浮かれた世相への警告というものがあったように思います。
広瀬中佐の漢詩を美文と持ち上げ、世の中を煽り、世の人が浮かれるのを苦々しく思っていたのでしょう。
文章中にも、あのような詩を作る者に限って(広瀬中佐は別として)、自分は安全なところに居て世間を煽り、
広瀬中佐の漢詩を美文と持ち上げ、世の中を煽り、世の人が浮かれるのを苦々しく思っていたのでしょう。
文章中にも、あのような詩を作る者に限って(広瀬中佐は別として)、自分は安全なところに居て世間を煽り、
自己宣伝して偉そうにしているというような事を述べています。
また「坊ちゃん」「それから」などの作品にも、そのような記述が見られるようです。
戦争に負けた戦後に生きる人々がこのように考えることは容易に想像できますが、
また「坊ちゃん」「それから」などの作品にも、そのような記述が見られるようです。
戦争に負けた戦後に生きる人々がこのように考えることは容易に想像できますが、
戦争に勝った戦後に、このように覚めた目を持ち、警告を発することができたということは、
漱石はやはり慧眼だったというべきなのでしょう。