らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「蜘蛛の糸」芥川龍之介

 
蜘蛛の糸」は芥川龍之介の代表作で、ほとんどの人がそのあらすじを知っていると思います。

簡潔に述べますと、
人殺しや放火を繰り返してきたカンダタという悪党が生前、蜘蛛を助けたことを
お釈迦様は覚えていて、
死後地獄の血の池に落ちていたカンダタを、蜘蛛の糸を垂らして救おうとします。
カンダタは、かなりのところまでいくのですが、
後から登ってきた地獄の罪人共を排除しようとした瞬間、
蜘蛛の糸は切れ、真っ逆さまに地獄の血の池に逆戻りしたというもの。

ペラッと読むと、自分だけ助かろうとしてはいけないというような道徳めいた教訓話に読めなくもありません。

ところが今回読んでみて、今までとは少々異なる感想を持ったので、述べたいと思います。

まず思ったのが、この作品は、夏目漱石「こころ」とテーマがかぶるところがあるのかな。ということ。

カンダタは普通になにげに歩いている時に、道端にいる蜘蛛を助けました。
お釈迦様は、このカンダタの行いが本当の善なる心に基づくものか試されたのだと感じます。


夏目漱石「こころ」で先生は言います。

平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。
それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。


つまりカンダタも自分の損得の関わらないところでは、蜘蛛を助ける「善らしき心」を持った人間だった。
しかし自分が極楽に至るための蜘蛛の糸が切れてしまうかもしれないという、自分の利害に関わるや、
豹変し、後続の人々を排除し、自分だけ利益を確保しようとした。

その時のカンダタの吐いた言葉。
「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。
お前たちは一体誰に尋(き)いて、のぼって来た。下りろ。下りろ」
まさにエゴイズムそのもの。

そのような人間は、極楽に住むにふさわしい真の善人とはいえないのでしょう。
彼は地獄に落ちるべくして、自ら落ちたのだともいえます。

蜘蛛を助けたことで、カンダタに善の心の根があるのではないか
とお釈迦様は思われたが、そうではなかった。
厳しくいえば、蜘蛛を助けたのは「善らしき」行いをしたにすぎず、
彼に真に善の心があったわけではなかった。
お釈迦様がなされた悲しいお顔はそのような意味があると感じます。


蜘蛛の糸は、今にも切れてしまいそうな、はかなく頼りなげな存在。
カンダタが利己の心を顕わにした瞬間、そのか細い蜘蛛の糸は切れた。

蜘蛛の糸は些細なことでゆらゆら揺れて切れてしまう、
か細い人間の善の心の象徴でもあるのかもしれません。