らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【けっさんさん9月課題分】小説「名月」

「本日は中秋の名月です。各地好天に恵まれ、お月見日和となるでしょう」
朝のラジオがニュースを伝えた。

「そうだ、今日は十五夜か。これはぜひ中秋の名月で一句詠まなきゃ」
今年になって和歌や俳句をかじり始めた僕は
会社に行く支度をしながらそんなことを考えていた。

今は本当に初心者の時期だから詠むこと自体がとりあえず楽しい。
会社に行っても仕事の合間の時間にネットで過去の短歌や俳句を検索し、
まだ見ぬ名月の予習に余念がなかった。

唯一心配だった残業もほとんどなく夜の7時には会社も終わった。
帰りの電車の窓から外をのぞくと、
お待ちかねのまんまるいお月さまがビルの間から姿を見せている。

僕はあらかじめ名月鑑賞ポイントとして目をつけておいた、
最もきれいに中秋の名月が見える自宅近くの見晴らしの良い丘の公園にそのまま直行した。

準備万端でさあ詠むぞと空を見上げると、
それはそれは絵に描いたようなまんまるなお月さまが天空に輝いている。

嬉々として名月と顔を見合わせて心から湧き上がるものを待っていた…
だが、なぜか出ない。
気を取り直してもう一度じっとお月さまを見た。
…出ない
深呼吸をしてお月さまを見た。
…出ない
首を横にしてお月さまを見てみた。
…出ない

いくらお月さまをじっと見てもなぜか歌が湧き上がらない。

予め収集しておいた語彙をはめこもうとしたがどうもうまいこといかない。
「名月や…」「十五夜や…」違うなあ…

なんだかいつもよりお月さまが遠くに感じる。
もう十分狼男になってもいいくらい目一杯月の光を浴びたのに、
歌は一向に出てこない。
うーうー唸りながら月を眺めていたから、
ある意味本当に狼男に変身しちゃったのかもと思わずクスッと独り笑いした。
あー、あほらし。

下界の悩み事などお月さまは一向に気にすることもなく、
いつもと変わることなく、煌々と月の光を地上にふりそそいでいる。

そのうち目が疲れてきて
お月さまがなんだか舞台のはりぼての作り物に見えてきた。
一度そう思ってしまうとなかなかそのイメージから抜け出せない。

やめた。今日はもう諦めて明日の朝に賭けよう。
きっぱり諦めて家に帰ることにした。
帰る道すがら、あーでもない、こーでもないと色々考えた。

昼間あれだけ予習して語彙も豊富に準備したにもかかわらず
一句も出てこないなんてどうしたのかな。
今日は頭が疲れていたんだろうか。

しかしそのうち図に乗ってきて、
だいたい中秋の名月っていうのは本当は雅(みやび)なもんではないんじゃないだろうか。
最近読んだ小説にあった。
俗な富士山には可憐に咲く月見草がよく似合う。
おそらく中秋の名月とやらも同じなんじゃなかろうか。
それだ、それだ、そうに違いない。それで詠めないんだ。

その日は寝床に入って目を閉じても、
まぶたの裏に中秋の名月が光り輝いていてぼーっとその月を眺めながら寝た。

次の朝5時頃起きて朝の散策に出かけた。
月は少々西に傾きつつもまだ天空に光り輝いていた。

ダメだ、昨日の夜と印象が同じだ。今回は遂に一句詠めなかったか…

夜明けとともに次第にその色を白く薄くし光を失ってゆく月を見ながら、
あー、金色に光り輝く中秋の名月もついに終わっちゃたのかとがっかりした。

しかしその時だった。
日の出とともに今まで紫がかっていた空に朝の光がにわかにさしこみ、
一瞬のうちに明るくなった。
たなびいている雲は朝の光を浴びてオレンジ色から桃色に変化していった。
ふと西に目をやると輝きを失いつつあった中秋の名月が白く輝きを増して、
朝の光を浴びてくっきりと浮かび上がり、
桃色やオレンジ色にたなびく雲間にゆらゆら心地よさげに浮かんでいるのが見えた。

人は心から美しいと思うものを見た時、興奮し心が高ぶると同時に、
ほんわかとした不思議と落ち着いた心持ちになるものだ。
僕のその時の心持ちもまさにそれだった。

そして全く予想もしなかった美しい中秋の名月の姿に、
自分は絵を描く人が慎重にそれを再現しようとするのと同じように、
その時感じた心を失わないよう、感じたままの言葉を慎重に取り出した。


曙(あけぼの)の
たなびく雲の
桃染めの
波間に浮かぶ
白き月かな


もちろんこの句は初心者の手習いのようなもので
堂々と他人様に披露できるものではないかもしれない。
しかし少なくともあの瞬間自分自身朝日を浴びながら
予想だにしていなかった美しい白き中秋の名月を見た感動を閉じ込めることができた。
句を読み返すとあの時の情景が鮮明に脳裏に蘇ってくる。

昨晩の僕は気の利いた句を詠むことばかりに気を取られ、
素直に対象を見つめて感じ取るという姿勢を忘れていた。
朝の光とともに突如現れた白く美しいお月さまは
大切なことを僕に教えてくれた紛(まご)うことなき名月だった。

散策を終え西の空を振り返ると、
完全に夜が明けた朝の青い空に、
白く薄く溶け込もうとしている中秋の名月の姿が微かに見えた。


                                          終