らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「神曲 地獄編」1 ダンテ



冒頭で暗い森に迷い込んだダンテは尊敬する古代の詩人ヴィルギリウスに導かれ、地獄を案内されることになる。

ここでダンテが巡る地獄を概説すると、それはすり鉢状の大穴の形をして一番深い部分は地球の中心にまで達している。
最上部の第一圏から最下部の第九圏までの九つの圏から構成され、地獄の階層を下に行くに従って罪は重くなるという構造のものである(画像参照)。
位置はエルサレムの真下にあるらしい。


まず入口の地獄門に銘があり「一切の希望を捨てよ 我が門を過ぎる者」と書かれている。
この銘を読むだけで地獄が絶望と嘆きの地であることが暗に伺い知れる。

門をくぐると地獄の前庭とでもいうべきところに無為に生き、善も悪もなさなかった者が地獄にも天国にも入ることを許されず永劫にさまよっている。
これは地獄そのもののような気もするが、どうも地獄とは「悪」を為した者が行くところ。天国は「善」を為した者が行くところ。「善」「悪」いずれも為さなかった者は地獄でも天国でもないところでさまようということのようである。

しかし、ただ嘆き悲しんでさまようだけでなく、蜂や虻の大群に刺され続け体じゅうが腫れ上がりさまよい続けるとのこと。
ここまで読んで、やはりここは地獄でないとは言っても責め苦に匹敵するものを受けており、地獄そのものと変わらないような気が個人的にはした。
ただ善も悪も為さなかった怠惰な者が蜂や虻に「追われる」というイメージで、「責め苦」とは違う感覚なのかもしれない。

しかし蜂や虻に刺されて追われるというのは日本人にはない発想だと思う。
中世の欧州は深い森は得体の知れない恐れの象徴であった。森に踏み入った者が時折遭遇する蜂や虻の大群は得体の知れない恐れの先兵のようなイメージで、ダンテもこのステージで登場させたのかもしれない。

そこを通り過ぎるとアケローン川が流れており、地獄の渡し守カロンの舟で渡り地獄へ向かう。
これは日本の三途の川そのもの。
違うところは三途の川は渡し賃六文銭を支払うが、カロンは少々荒っぽいが無料で舟に乗せてくれる(画像参照)。
インドでは今でも死後にお金に困らないように死後の国のお金を柩に入れる風習があると聞くが、三途の川の渡し賃はインドから中国を経由して伝わったのかもと思う。
余談だが戦国時代真田家の六文銭の旗は三途の川の渡し賃に由来する。

川を渡ると第一圏(辺獄)に至る。
ここはキリスト教の洗礼を受けなかった者が呵責こそないが希望もないまま永遠に時を過ごす場所。
ただ先のように蜂や虻の大群に襲われることはない。

ここは第一番目の地獄だが責め苦はない。
先ほどの場所は地獄ではないが責め苦に似たものはある。
日本人的にはちょっと不思議な感じ。

なんとか説明すると洗礼を受けなかったこと自体は「悪」だが、洗礼という儀式に過ぎないので軽く扱われているのかもしれない。
例えば母の胎内で亡くなった場合は洗礼を受けることができない。
日本の地獄でも賽の河原で水子が永遠に河原の石を積むという話がある。それに近い感覚なのかもしれない。

さて第一圏を通過すると地獄の裁判官ミノスがまちかまえていて1人ずつ裁きを受ける。
日本でいう閻魔大王にあたる。
ミノスはどんな姿形で、どんな裁き方をするのか。

長くなりましたので次回に続く。